薩摩の伊東氏


            ■背景:伊東氏と島津氏の特別な関係
            ■薩摩伊東氏の由来と日向伊東氏

            ■加賀守祐安、弟右衛門佐の系譜
            島津家文書に見る薩摩伊東家
            
■木脇大炊介祐兄流伊東氏

            井尻祐宗流伊藤氏・伊尻常陸流伊東氏


            □伊東家の家格(職制)「小番太刀」考察
            
□引用・参考資料
            
□<あとがき>


           ■背景:伊東氏と島津氏の特別な関係


<平安・鎌倉時代・伊豆国> 頼朝をめぐる深いゆかり

 
島津氏の記録(鹿児島県史料)やその他の系譜史料によれと、特に戦国時代以降多くの伊東氏(伊藤氏)が島津家に入ったという。それは、大別して伊豆国の藤原祐経(工藤祐経)の子孫である日向国伊東氏流と伊藤祐親の子孫相模国伊藤氏流とされ、ともに藤原氏=工藤氏=狩野氏、そして宇佐美氏、河津氏などを称えた工藤・伊藤(東)家継(祐隆)の子孫で同族である。

 祐親・祐経は、源平の抗争の最大の震源地となった伊豆国において、相前後して源頼朝の側近として住し、頼朝と極めて親密な関係にあったことで知られる。また、工藤・伊東家の宗家の家督および所領の権利相続を巡る紛争が原因となり、母親の再婚に伴って伊東氏を改姓し曽我氏を称した曽我五郎・十郎の「曽我物語」が生まれて有名である。曽我物語とは、言い換えれば、伊東氏一族の家督と所領を巡る骨肉の争いを描いた「伊東家物語」である。
 しかし、その曽我事件の真相については、これまでの歴史家の研究によって、元来平家の家臣であった北条時政が仕掛け人となった「将軍頼朝とその第一の重臣・工藤祐経」体制の政権確立の阻止を狙ったクーデターであったことが語られるようになった。
備考<曽我事件の風景>参照

 伊東氏・伊藤氏は、奈良時代から平安時代初期にかけて盛んであった藤原氏(南家)の子孫の同族であったが、また伊東氏と島津氏とは、伊豆・鎌倉時代を通じて源頼朝を挟んで極めて近しい関係にあった。平安時代末期、伊豆国において、伊東家と「頼朝の乳母」とされる「比企尼」とは、比企尼の娘が「伊東祐親の息祐清の妻」となって縁戚の身内としてのつながりがあり、他方、比企尼の娘「丹後局」と島津氏元祖「惟宗忠久」も島津氏の歴史の中では特別な関係にあったとされる。また、当時、京の平重盛に仕えて皇居清涼殿の武者所責任者として永年勤務していた伊東氏総領・工藤祐経(左衛門尉)は、このような、出身地の伊豆国や鎌倉の身近な事情については、十分知り得る立場にあったと考えられる。
 従って、頼朝が、全国の国割り--地頭職の任命に当たって、薩摩には摂関家の家司につながる惟宗忠久(島津氏)を、その隣国の日向には頼朝側近で寵臣の南家・伊東氏(工藤祐経・嫡男伊東祐時)を配置した裏には、当然、そのような両者の親密な関係を背景にした特別な考慮が働いていたことが大いに推察される。
<伊豆国>伊東氏(工藤氏)姻戚関係図


<南北朝・室町時代>親交と対立

 日向伊東氏と薩摩島津氏は、相前後して源頼朝の側近や鎌倉御家人として重用された。その子孫が鎌倉時代および南北朝時代に日向と薩摩にそれぞれ下向し、歴史的に親交・姻戚関係を保つ一方、やがて、数百年にわたって南九州の覇権と守護大名を争い合戦に明け暮れる強烈なライバルに発展していった。

 その中で、特に注目すべきは島津氏と伊東氏の間において応永10年(1141)、寛正6年(1465)、永世9年(1512)の三度にわたり伊東氏から薩摩島津氏当主にお輿入れがあり、姻戚関係が持たれたことである。すなわち、島津氏中興の祖で戦国大名島津氏元祖・忠良は、父が伊作島津家9代島津善久、祖父は8代島津久逸と続き、その曽祖父は島津忠国、母は日向飫肥を治めていた島津一族新納是久の娘で後に有名な「常盤御前」である。
 この飫肥を本拠とした新納家の姫が、島津家中興の祖・島津忠良を生み育て、大きな影響を与えたという。また、戦国時代の特徴とは言え、鹿児島の島津本家は第8代豊久、第10代立久、第12代忠治と3代続いて伊東家から室(夫人)を迎え、島津第9代忠国は第8代伊東祐安の外孫、島津第10代忠昌は第10代伊東祐尭の外孫、島津第12代忠治は第12代伊東尹祐の外孫と続き、それぞれ伊東家当主が「島津本家の舅殿」という特別な関係が成立していた。

 一方、島津氏は、伊東氏の場合と同様、一族の抗争が烈しく内乱の発生も続いたが、永世16年(1519)薩摩・大隅・日向の「三州大乱」と言われる動乱の結果、伊作家島津忠良(日新斉)という人物が出現し、大永6年(1526)11月鹿児島にあった島津本家14代勝久を、初めは談合により、後には武力によって豊後に追放し、代わって忠良の嫡子貴久が第15代島津宗家を相続した。その貴久の子息は、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟で、武勇に優れ、また日新斉の薫陶をよく伝えて、親兄弟よく和合・協調して強固な家中の統一体制、戦国大名家を実現した。すなわち、島津氏の隆盛の転換点は、この島津日新斉(忠良)の出現に始まり、その子や孫の人材育成の質の高さにあった。
 更に、この島津日新斉(忠良)の母・常盤御前は、伊東氏の親密な縁戚であった志布志の新納氏の出身であったことでもわかるように、伊東氏との姻戚関係からくる血統のつながりは甚だ浅からぬものがあったのである。
 そして、もともと京において文官・学者の家系とされる惟宗氏を先祖とする島津氏にとって、特に伊東氏日向48城の最大版図の基礎を構築し、京においても評価が高く希代の人物であったという第10代伊東祐尭(すけたか)をはじめとする、歴史的な武家としての剛勇のその血筋と器量は、後の戦国大名島津氏に大きな影響を与えたように推察される。


            
伊東氏--島津氏姻戚関係図 参照


         
<日向の竜・薩摩の虎>義祐・貴久父子の戦い>
            戦国異彩 「飫肥城100年合戦」



              
 薩摩伊東氏の由来と日向伊東氏


 
伊東氏流の薩摩入国をその原因別に見ると次ぎの三通りである。これから見えるところ、薩摩における伊東氏は、鎌倉時代以来特別な関係にあった伊東・島津両氏が、日向・薩摩・大隅の南九州(三州)を舞台にして、その覇権と守護大名の地位を賭けて対立し、止む無き合戦の過程・結果として発祥したことが窺われる。

  
①西暦1510(永正7)第1回目の伊東家・島津家両氏の姻戚関係の成立
  
西暦1533(天文2)武州の乱・左兵衛佐の乱 西暦1575(天正3)「若衆騒動」
  ③西暦1572(元亀3)「木崎原合戦」~西暦1578(天正5)「伊東氏崩れ」
  
④西暦1196年(建久7)島津忠久の薩摩入国に随従(伊藤・伊東祐親流井尻氏)

〔1〕南北朝期 伊東宗家日向下向---先住派「庶子家」との対立

 鎌倉幕府成立以前、伊東氏は、藤原南家嫡流の伊豆国最強の豪族・領主として鎌倉・伊豆国に住んでいた。鎌倉幕府成立に伴って建久元年(1190)、将軍源頼朝は、頼朝の側近で寵臣であった先祖・藤原祐経(工藤祐経)に日向国の地頭職と全国24ヶ国の所領を与えた。その嫡子伊東祐時から五代祐持まで、本家は伊豆・鎌倉に居住していた。この間、日向の領地は祐持八男の庶子である伊東祐頼が代官として日向に下向し、日向木脇の土地をとって「木脇姓」を称えて経営に当たっていた。すなわち、日向伊東氏の現地におけるもともとの領主は木脇氏(木脇伊東氏)であった。

 その後、鎌倉幕府の崩壊と南北朝の合戦の時代に至り、伊東本家の祐持は足利尊氏に随従して各地に転戦した後、尊氏の命により日向国に下向して「都於郡城」を築城した。伊東本家が、それまでの日向伊東氏の庶子であった木脇伊東氏に代わり、日向に移り住んだのである。
 しかも、南北朝の対立で本家祐持は足利尊氏に随従していたので「北朝」、先住木脇祐頼の孫「伊東藤内左衛門祐広」は、一族の弥七祐貞、弥八祐勝はじめ肝付、益戸、平島他の諸氏と共に「南朝」方に味方した。南朝方・祐広にとっては先住者の既得権を守る上で必然的な選択であった。

 このため、伊東家には伊東本家一族と庶子方との両派の烈しい抗争・戦いが発生した。また伊東家は、祐時の男子10人、祐光の男子7人などと子が多くいたこともあり、伊東宗家と一族・家臣団との間は、武家の厳しい気性とあいまって烈しい内紛が発生した。
 伊東氏の歴史は、この伊東本家の日向下向の事情を反映して、南北朝期の戦乱によって対立・紛争の種が蒔かれ、島津氏との対立が絡んで同盟関係を大きく左右して来たのである。


〔2〕伊東尹祐娘 島津忠治に輿入れ---木脇流伊東氏の発祥

<西暦1510(永正7)「薩摩・日向・大隅大乱」>


 明応年間(1492~1501)鹿児島城を居城とした薩摩島津氏の本家勝久は、守護職の権威によって辛うじて政権を維持していた。薩摩の出水の亀ヶ城を居城にして勢力を拡大した分家の島津薩州家の実久、伊作の亀丸城を居城とする分家の島津伊作家の忠良、加世田の別府城に依拠した島津相州家の運久らが各地を占拠し、入来院氏など国衆の勢力も強大化していた。西暦1506(永正3年)8月大隅の肝付兼久、島津氏に叛する。しかし、兼久を討伐するの島津軍は目的を達せず敗退。西暦1508(永正5年)忠昌は、島津一族、国中の反乱に悲憤して自殺した。また、西暦1510(永正7年)日向の伊東尹祐の後妻と世継問題で内紛「綾の乱」発生。この時期「日薩隅大乱」と言われた。
 この日薩隅大乱の騒然とした状況を沈静化するため、同年12月23日当主島津忠治は、日向伊東家当主尹祐と話し合って尹祐の姫を娶る。日向都於郡木脇(宮崎県)領主伊東氏の子「木脇主税助」は、伊東大和守尹祐の命により尹祐の娘が島津忠治にお輿入れした際に、お供をして薩摩に入国し島津家臣となった。

3〕伊東宗家尹祐一族と(弟)祐武一族 両派の内紛

①西暦1486(文明18)「野村氏の乱」
 当時の国主祐国が、島津当主忠昌に殺害され、実力者で人望があり後継を期待されていた祐国弟の祐邑が島津氏への反撃のため豊後の大友氏の支援を頼むが、祐邑が大友氏に内通していると見た伊東家最大勢力の野村氏がその祐邑を殺害。これに激怒した祐良(尹祐・ただすけ)は、野村一族の11の外城主をことごとく滅ぼした。 尹祐を暴君と印象付け、且つ隣国である島津・大友両氏との同盟戦略において難しい三角関を作ってしまったこの事件は尹祐の歴史的に大きな失政となった。以降、尹祐(ただすけ)は大きく大友氏に傾斜し、伊東氏の多くの家臣団は、旧来の縁戚である島津氏との関係を重視したため、この事件はその後の伊東氏の内政・外交を制約し、一族・家臣団は二股に裂かれて内紛を増長する原因になった。

②西暦1533(天文2)「武州の乱」(武蔵守祐武の乱)
 本家尹祐の舅となった外戚福永氏は、尹祐の権力を盾に、日向伊東家の内政に専横を極めていたといわれ、伊東一族・歴代の家老・家臣団内に不満が充満していった。やがて、外戚福永氏一族の権勢による政治は行き詰まり、強敵島津氏を前に当時伊東家は危機的状況であった。
 西暦1531(享禄4)外戚福永氏を取り除くため若衆が決起し合戦が起こる。尹祐の死後14才の時後を継いだ祐修(祐充)は約10年間活躍し24才で死去するが、その直後の天文2年(1533)伊東家の現状に絶望し危機感を強めた祐充叔父の「武蔵守伊東祐武」は、遂に,福永氏に切腹をせまり日向伊東氏の権力を掌握した。

 しかし、その後、祐充兄弟の祐清(義祐)・祐吉は、難を避けるため国外逃亡を謀るが家臣団の説得と援助があり、逆に都於郡城の叔父祐武を攻めて自刃に追い込み、再び本家祐清(義祐)側が権力を奪還した。「武州の乱」と言われ、外戚福永氏一族の専横に端を発した内乱であったが、この伊東武蔵守祐武は、実は伊東左兵衛佐・その弟伊東大炊介の父であった。この事件は、その後伊東氏本家の尹祐(義祐)派と祐武(左兵衛佐)派の両派に、相互の根深い怨恨と警戒感を生み出し家内の結束を弱め、伊東氏衰退のもう一つの大きな要員となってしまったのである。

西暦1533(天文2)「左兵衛佐の乱」

 父祐武を殺害され、日向伊東家の行く手にいよいよ強い危機を覚えた祐武の息「伊東左兵衛佐」は、西暦1533(天文2)米良石見守を頼り多くの家臣・諸衆を率いて伊東本家に対抗して乱を起こす。その結果、日向山岳の諸衆は本家祐清派と左兵衛佐派の二派に分かれて合戦に及ぶ。しかし、この内戦は戦力に勝る伊東祐清(義祐)派が勝利し、諸衆は祐清(義祐)に降伏し、左兵衛佐は何処かへ退避したが、翌年までに左兵衛佐派はほぼ制圧されたという。先に発生した武州の乱に続く余震であった。


           
■加賀守祐安および弟・右衛門佐の系譜


 日向国伊東氏は、島津氏との決戦となった「伊東崩れ」によって、天正5年12月国主の従三位伊東義祐が、三男祐兵など宗家一族と共に豊後に敗走して日向国を失った。
 伊東氏宗家が京・大阪に逃れて不在となってからの日向は、占領者の島津氏の支配するところとなった。
島津義久・義弘は、天正5年12月日向伊東氏宗家一族から島津氏に降伏して薩摩入国を果たした「伊東右衛門佐」「伊東源四郎」などに対しその厳しく難しい立場に配慮しながら、その後の日向の統治に関しては彼らの忠誠・協力の宜しきを得て、島津氏による「円滑な日向統治(占領政策)に寄与せしめていた様子が窺える。
 そのことは、特に木崎原合戦で戦死した大将伊東加賀守祐安、および生き残りの右衛門佐の兄弟を、「従三位義祐の兄弟」として扱い、右衛門佐の嫡子の喜右衛門(三河守)、その弟・次左衛門(金法師)、加賀守祐安の息・源四郎等に相当の要職を与えて近習させたことによってもわかるように思われる。
 即ち、従三位義祐の日向国が没落して以降の日向伊東氏を代表する存在は、島津氏に滅ぼされて皆無になったのではなく、嫡家・右衛門佐を頂点とした薩摩伊東氏として処遇されていたのであった。

 このように、義久・義弘は、右衛門佐を守護大名(太守)の立場において、今やその旗下・家臣となった日向伊東氏の当主・嫡家として扱い、永年伊東‐島津戦争を和戦両面で競った縁戚の名将・戦友として厚遇したのであろう。それは、伊東氏が歴史的に朝廷と縁が深い藤原氏(南家)嫡流であったので、従三位義祐・祐兵父子が京・大阪に退避して時代、島津家中内外、特に朝廷や幕府に対する「日向伊東氏の行方・処遇」の説明としても必要であり島津氏としても有益なことであったと思われる。

 ところが、天正16年(1588)5月、秀吉の九州征伐によって島津氏が敗北し、庶子ではあったが義祐三男・伊東祐兵が、その九州征伐の水先案内人となり大きな功績を挙げた恩賞として「日南・飫肥」を中心に日向1700町の知行地を受領して10年振りに日向帰還を果たした。その飫肥藩は豊臣秀吉によって生まれ、これを安堵した徳川家康の決定によって安定したのであった。
 島津氏は、当初の時期の緊張関係を除き、祐兵初代の飫肥藩との友好関係の維持に努力した形跡もある。また、薩摩における日向流伊東氏と新しい飫肥藩・伊東氏双方をその成り立ち・経緯に従って配慮し対応してきたのであろう。
 しかし、秀吉によって日向国が飫肥藩を含めて4つの藩に分割されたことで、日向伊東氏の飫肥藩成立以前と以後では、島津家中での薩摩伊東氏の立場・重みが変化せざるを得なかったことは否めない。


〔1〕祐武--加賀守--右衛門佐流系譜の検索

 薩摩伊東氏の主流は、上記の薩摩伊東氏の発祥の背景から武蔵守祐武-左兵衛佐流、あるいは加賀守祐安--右衛門佐(弟)流であることが容易に推察される。しかしながら、日向記など日向の記録によって伊東氏一族の系譜を考察した時に、次ぎのような問題がありそれが日向伊東氏の歴史の理解を難しくしていると思われる。


①祐武流の左兵衛佐、加賀守、右衛門佐(右衛門)の関係。

②左兵衛佐の弟に祐審がおり、祐審は大炊介(助)とされているが、これと加賀守・右衛門佐との関係が不明。加賀守の実名は祐安。右衛門佐の実名、幼名は分らない。

③父祖の系譜を見ると、祐国―尹祐(嫡男)--義祐の尹祐流に対し祐武流は尹祐--祐武--左兵衛佐・祐審(大炊介)となる。しかし加賀守と右衛門佐の父祖は見えない。

④一説には加賀守と右衛門佐は、「義祐の異腹の兄弟」と書かれているが祐国―尹祐 -義祐の尹祐流の系譜の中には、どちらの名前も見えない。

⑤右衛門佐の嫡男は、伊東三河守でその弟は金法師であるが実名や幼名はわからない。また、加賀守の息は源四郎であるが職名(官名)や幼名が分らない

⑥日向国没落10年後成立した飫肥藩によってまとめられた「日向記」においては、当時薩摩藩側の情報の正確な捕捉は 困難であったと見え、「加賀守・右衛門佐・祐審・大炊介・源 四郎などいずれも「木崎原合戦時死亡」あるいは「伊東崩れ時死亡」などと記載されるが、墓標が認められるのは加賀守祐安のみでこれらの人物の墓など行方の証拠が不確実なこ とは否めない。

 そこで、これらの疑問点について薩摩(鹿児島)側の各種資料を探索し照合して考察した結果次ぎのよう点が明らかになった。この調査結果から、木崎原合戦とその前後の日向伊東氏一族の人物、人名、その他相互の関係がより明らかになり、日向記などの史料・戦記などを利用する際は、これが読者の理解を助けると思われる。また、日向伊東氏一族の薩摩入国の背景と、島津家臣となってからの動向や活躍の暦史など、失われた伊東氏の歴史を知るうえで有益と考える。


〔2〕薩摩入国と日向流・薩摩伊東氏



               
伊東右衛門佐(大炊介・祐審・祐明)

●右衛門佐についての記録
 
第3代当主伊東尹祐の2番目の弟祐武その三男。先に父祐武が福永事件であった「武州の乱」で切腹したとき追及を避けて伊予国に逃れて浪人をしていた。元来武道の達人で歌道にも優れていたので、後に義祐が伊予から呼び戻していた。

 「左兵衛佐の乱」の兄加賀守は、天文18年(1549)2月20日の「井手尾合戦付相撲事」の中に手柄を挙げたことがみえるが、伊予国に退避していたとされる右衛門佐は、天文24年(1555)7月7日にあった「古市時任作薙并合戦事」において合戦の名乗りをあげているので、天文20年前後には義祐に呼び戻されて仕えていたようである。(天文17年義祐嫡男歓虎丸の死亡、義祐出家の時期か有力)おそらく、両派の重臣たちの進言・仲裁によって兄加賀守と共に例えば義祐の兄弟並みの扱いなど厚遇の和解の約束が成立して、日向に戻って義祐の家臣団に加えられ仕えていたと思われる。そして、日向帰国・義祐家臣として仕えるに当たり兄左兵衛佐は「加賀守」、大炊介は「右衛門佐」の日向の官名を与えられたと推測される。

 永禄12年(1569)2月21日には飫肥城に救援に来た島津軍を迎え撃ち勝利している。また、「伊東崩れ」の時天正5年12月に義久の軍が諸県郡本庄に討ち入った時、義祐の一行に遅れて島津軍を迎え撃とうと身を潜めていたが、内通者があり義久から見参したいと言ってきたのを真に受けて出て行ったところを待ち伏せに会い捕縛されて義久に切腹させられたという。(日向の大将としては一旦自刃。後日薩摩の記録により島津家家臣)
(日向記)

●薩摩伊東家系譜に残された履歴
 
伊東義祐は島津義久と絶間無く数多く交戦。祐明(右衛門佐)は、両家の和平・和合について諌言すること幾度となく及んだが、その助言は義祐に用いられずその後も義祐は島津義久と執拗に戦い続けて、結局、不運が重なり島津氏に大敗し追われて豊後に落ち日向国を失った。これにより祐明は、天正5年12月15日日向伊東氏としては「自刃」し島津家臣になる(降伏)。そして島津家臣・薩摩伊東氏の嫡家として果敢な活躍をして手柄を挙げた後、文禄元年7月18日鹿児島市吉野村竜ヶ水において、太閤秀吉の厳令によって兄義久の手によって討たれた弟「島津歳久」に殉死した。(薩摩伊東家系譜)

菱刈合戦(羽月飛田瀬)大軍功(薩摩入国以前)

 永禄11年(1568)1月20日、島津軍は大口城主の菱刈氏を攻撃。羽月飛田瀬において戦局が悪化し忠平(義弘)が窮地に陥ったとき大軍功。(菱刈氏を助成していた伊東軍右衛門佐が、急遽、飫肥城総攻撃に回る必要から菱刈合戦から撤退したが、その時義弘・新納忠元と右衛門佐間で和議があった可能性。伊東右衛門佐は、この年飫肥城を受取りの使者)「堂崎合戦・旧記雑禄」

肥後・水俣の御陣・義弘の副将
 右衛門佐は、天正9年の肥後・相良氏攻め「水俣御陣」の時に、馬越地頭として出陣。陣立てにおいて義弘の副将。右衛門佐は肥後八代陣で軍功多大、豊後陣の関城において敵軍に急襲された際血戦してこれを退治。「本藩人物誌」


●肥後戦の後、義弘「馬越地頭・伊東右衛門佐宅御談合」の記録
 
「天正12年9月朔日。肥後征伐の後、義弘から馬越の伊集院忠棟に使いが来て今日の御談合の在所は如何の由。新納忠元・川上参州酒で閑談していた処へ忠平公(義弘)より御使いあり夕方より此の方へ到着するのでと御沙汰あり。忠平公御旅宿は、馬越地頭伊東右衛門佐宅にて御談合、とのことですぐに参上。
 そして、亭主の伊東右衛門佐がご挨拶申されて、座躰は、主居には武庫(義弘)・忠棟・町田出羽・小鼓打松尾方・亭主(右衛門佐)。客居図書頭忠長・拙者(覚兼)・大鼓打奥山左近将監方・武州忠元・川上参州忠智・猿渡越中守・種種御会釈也。御点心に移られては主居は武庫(義弘)・川上上州・武州忠元・町羽州・新納武州・松尾與四郎・亭主(右衛門佐)客居は麟臺忠長・忠棟・拙者・奥山・本田刑部少将・川上参州也。種種持参の御酒があり、この夜座が果てるまで御談合がなされた」

「天正12年9月朔日上井覚兼日記(藤原姓町田氏正統系譜卷第十三久倍ニ」


●秀吉の九州征伐島津軍陣中、右衛門佐「馬越地頭御使役・義弘の副将
 右衛門佐は「天正九年(1581)肥後国水俣御陣人数賦」(肥後相良攻防戦陣立 1番~3番)では、2番御陣・大将島津義弘(忠平)の副将・内地頭の一人。この頃、義弘と共に動いているのでこの九州征伐戦も同様と推察される。
 大口城主新納忠元伝では、
『伊東右衛門佐は秀吉薩摩入国の砌、新納忠元へ城を下りて秀吉に降伏せよと説得するため,その「義久・義弘の使者」を勤め説得に当たった。忠元ようやく承知して下城し秀吉に拝謁。」と、島津家存亡の危機の時忠元を説き伏せ大軍功の記録。
「大口市誌」「本藩人物誌」

●右衛門佐(祐明)鹿児島・竜ヶ水でに殉死---秀吉の厳命で歳久を兄義久が討つ
 秀吉の九州征伐は、天正15年(1587)5月太守島津義久が秀吉に降伏。剃髪して薩摩の川内で秀吉に謁見。次いで義弘も降伏する。しかし三男で義弘の弟・歳久は、虚病を構えて秀吉の所に出頭しなかったのみか、秀吉が陣屋に引き上げて行く際わざと険しい山道を案内し、山賊を使って秀吉の籠めがけて矢を射掛けさせたと言う。秀吉はこれを怒ったが、その時にはそれほど気にかけなかったいう。

 ところが、時が過ぎて文禄元年(1592)秀吉の「朝鮮出兵」のため肥前名護屋で釜山にむけ将兵の渡航が行われている最中、義弘の陣に参ずべく一旦出陣した島津歳久配下の梅北国兼という武将が、秀吉への反感から肥後平戸に引き返し佐敷城に篭り謀叛を起こし、あっけなく鎮圧 される事件が発生。 秀吉はこの事件を聞きつけから過去の五箇条の罪状も挙げ、義久に、直ちに帰国して弟の歳久を討取り首を差し出すように厳重に命令。 従わなければ「島津を攻め滅ぼす」と威嚇されたため義久も観念。義久は、やむなく鹿児島の錦江湾沿いで桜島に面した景勝の地・鹿児島市吉野町の竜ヶ水で弟の歳久を討った。

  この時、殉死は厳重な禁止事項ではあったが、島津軍の中で猛将として人望の高かった歳久の不運を悲しみ殉死を申し出るもの多く、義久は、歳久の悲運への痛恨の思いからこれを特別に許可したという。
文禄元年7月18日吉野村竜ヶ水で殉死した武将23名。この中に「伊東祐明(右衛門佐)」がいた。

 祐明は、当初義久・義弘に仕えていたが
薩摩伊東家の嫡家として加賀守の息「伊東源四郎」を実力者義弘に預け、嫡男「喜右衛門」は当主義久の養子に回って島津家当主となった忠恒(家久)の仕え(納戸役)させ、二男金法師(次左衛門)も義弘に配属させて、その上で自らは当時薩摩東郷に居住してその領主 で島津家の猛将で有名であった歳久に属しご家老・副将の一人として近侍していたようである。右衛門佐は、この不幸な事件で副将としての責めを負い、且つ太守義久・義弘に対して深い追悼の念を示し自刃したと思われる。



              伊東喜左衛門(右衛門佐嫡子・三河守)

●薩摩に移ってからの右衛門佐嫡男「喜左衛門」
 
元の名は七郎右衛門。日向記には祐命・三河守(参河守)とあり、金法師(次左衛門)の兄と記録される。また、日向記に、永禄10年(1567)8月27日「犬興行并慶龍丸御誕生事」の用意方の役とてはじめて見える。また、天正5年(1577)8月義祐の「伊東崩れ」に先だって伊東家の家督を急死した義益から義益嫡子の義賢に譲り、義祐が後見人となった時「義賢公十一次郎祐勝八才の時御両殿都於郡お開き之刻御供の人数」に、弟金法師と共に三河守が見える。

●「肥後・水俣の御陣」人数賦・軍役

 天正9年(1581)、「右衛門佐息伊東喜右衛門(三河守)」は御本陣・太守島津義久、大将島津歳久の軍役7人として名を連ねて出陣。軍兵5万3千人


●秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)島津家久(忠恒)の御納戸役御供

 
文禄3年(1594)10月島津忠恒(家久・義弘息)朝鮮渡海の時喜右衛門「当時喜左衛門」は御納戸役にて御供。秀吉から従軍の兵10,000に更に5,000の追加派遣の命令が発せられた。しかし、義弘は新納旅庵を使者に立て、国中疲弊してとてもその数の増派はとても出来ないことを秀吉に申し出て許可をえた。当時忠恒軍に従って滞在していた島津軍の将士の数は約1,000名に上った。慶長3年8月朝鮮出兵を命じ総指揮官であった豊臣秀吉死亡。直ちに朝鮮派遣の諸将に召還の命令。終戦交渉が成立し慶長3年(1598)12月島津義弘・忠恒に御供し喜左衛門帰国。

●島津家の内乱・伊集院忠真「庄内の乱」に鎮圧のため出陣・戦死
 
伊集院忠真は日地薩隅三州の太閤秀吉の検地によって、庄内(都城市)8万石に封ぜられた島津家重臣伊集院忠棟の嫡子でまた義弘の娘婿であった。忠棟が人質として京にあって石田光成と結んで島津家の政治案件を勝手に扱ったので文禄・慶長の朝鮮の役の頃から義弘の子忠恒(家久)と忠棟は対立。忠恒は上洛の折に伏見で忠棟を誅殺した。これを国もとの庄内で知った嫡子忠真は島津家に背き謀叛を起こした。この庄内の乱は、豊臣体制へ転換を図りたい義弘・忠棟組と旧体制で頑張ろうとした義久・忠恒(家久)・重臣諸侯組との政治路線対立が絡んで起きたと言う。
結局この島津家の内乱は慶長4年(1599)3月から慶長5年3月まで約1年間続き、徳川家康の仲介もあって忠真が降伏して頴娃1万石に移されて終った。しかし、2年後慶長7年(1602)8月、忠恒(家久)は日向国野尻で上洛の途上同伴した忠真を殺害した。
伊東喜左衛門は、忠恒とともに朝鮮出兵から帰国後、慶長5(1600)1月この「庄内乱」の鎮圧のため出陣し合戦の最中討死した。(鹿児島県史料、本藩人物誌)



             伊東源四郎(加賀守の子・平右衛門祐氏)

木崎原合戦と源四郎の消息
 日向記には、木崎原合戦の時、伊東軍率いる大将の一人であったが戦死したと記録されている。しかし薩摩の記録では、木崎原戦後の源四郎を含む伊東軍の敗残部隊を新納忠元の島津軍支援部隊が包囲し拘束したとされ、源四郎が捕縛されたか、または、木崎原合戦以前の飫肥攻防戦において島津軍が大敗北し、「飫肥地方および飫肥城」を伊東方に引き渡すことで合意したが、伊東軍大将加賀守は、息源四郎をその「霧島山麓での和平協定」の担保・人質としていた可能性。義祐が木崎原合戦によって休戦協定を破ったことで、木崎原戦後、飯野の義弘のもとで人身の安全確保を兼ね人質であった可能性がある。

「肥後・水俣の御陣」人数賦・軍役「伊東源四郎」
 島津義弘日向飯野に在番の時分、天正9年(1581)、「加賀守息伊東源四郎」は、御本陣・太守島津義久、大将島津歳久の軍役7人として名を連ねて出陣。軍兵5万3千人。また、源四郎はその後伊東常陸守の子「伊東平右衛門尉」家の養子になって名跡を継ぐ。「伊東平右衛門祐氏」と上書にある。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)島津義弘の諸将 御供
 天正19年(1591)9月太閤豊臣秀吉は朝鮮の征封を命令。文禄元年(1592)4月島津義弘朝鮮渡海のため、嫡子息久保と共に肥前名護屋を出発する。この時伊東源四郎も義弘軍に従軍。朝鮮在陣中、町田氏正統系譜第第廿四によると「川上久国 朝鮮泗川陣衆鎧毛色附 注進状」があり、伊東源四郎は「赤をとしにて候」と記録されている。翌年文禄2年8月島津久保は朝鮮で病死。

 このため、京の石田光成は義弘息忠恒を義久の養子にするよう奨めた。忠恒(家久)は文禄3年3月太閤秀吉に拝謁。同年10月忠恒軍船で朝鮮渡海。天保5年(1834)の伊東平右衛門家系図の記録に「忠恒は陣営で謁して、自分が島津家の世継に就任したこと、ここが本陣であると話されたこと。忠恒公直ちに別営を作らせ入営。源四郎(祐氏)は早速祝賀のため御酒二樽と鯛三尾を献上した。同年11月2日夜にも大魚ニ尾献上。高麗御日記の祐氏とは、伊東平右衛門のことである」云々とある。文禄4年8月、義弘と共に朝鮮より帰国。また、慶長2年秀吉から義弘に再征の命令。従軍の兵10,000に更に5,000の追加派遣の命令であった。しかし、義弘は新納旅庵を使者に立て、国中は疲弊してとてもその数の増派はとても出来ないことを秀吉に巧みに申し出たところ運良く許可を得られた。当時忠恒(家久)に従って朝鮮滞在していた島津軍の将士の数は約1,000に上った。しかし、遂に慶長3年8月朝鮮出兵を命じ総指揮官であった秀吉死亡。直ちに京から朝鮮派遣の諸将に召還の命令。慶長3年12月義弘・忠恒の帰国に従い源四郎帰国。

京都・大阪蔵奉行
 慶長19年「大阪夏の陣」の時、島津義弘公に従い、新納雅楽介、新納右衛門佐と共に「京都・大阪蔵奉行」を勤める。

中納言様(島津家久=忠恒)、藤原祐豊(伊東源四郎=伊東平右衛門祐氏)宅に両度の訪問あり、和歌一首鋳付けの芦谷という「茶釜」拝領。その和歌は

   「釣ラルトモフスヘラルトモ心カラ ヨシヤアシヤハ人ノ言ナシ」




             伊東金法師(三河守の弟右衛門佐ニ男)

金法師をめぐる源四郎の跡目騒動
 右衛門佐の嫡男三河守(喜左衛門)は日向の那珂平等寺法師の弟子であったが、その弟に金法師がいた。金法師は木崎原で戦死した加賀守の子源四郎が戦死(実は在薩摩)したので、その養子となることが約束されていた。そして、いよいよ加賀守の跡目を継ぐことになったが、源四郎は都於郡一乗院の弟子でもあったことから金法師は一乗院に入ることになた。当時平等寺と一乗院はともに日向の真言宗の名刹で勢力が伯仲していたという。このため、金法師をどちらの寺にいれるかという問題で、若輩36人が互いに連判して二派に分かれて争論になりそして対決に及んだ。この騒動の成り行きに激怒した義祐はこの36人を追放したという。(日向記など)

「伊東崩れ」による金法師の各地流浪と薩摩入国
 日向佐土原城にいた右衛門佐の二男・金法師(次左衛門)は、伊東崩れの際、先ず志布志の諸所を流浪し、そのうち島津氏の重臣伊集院忠棟の子忠真と相知るところとなり、伊集院忠真に寄宿しちょうどその頃勃発した島津家の内乱「庄内の乱」に蒔き込まれ参戦した。しかし、やがて忠真は島津氏に降伏。金法師はやむなく家臣を散じ自身は民家に隠れていたが、間もなく島津義弘に召し出されて加治木に来て義弘に拝謁。遂に義弘の家臣となり、以後すこぶる知遇を得た。




            島津家文書にみる薩摩伊東家


諸家大概

 「諸家大慨」伊東氏の条抜粋(玉里公爵島津家所蔵 鹿児島県立図書館複製)

①伊東氏の島津軍初陣 ●島津氏「天正9年 肥後国水俣御陣人数賦」(肥後相良攻防戦御陣 1番~3番)
①「伊東(藤)右衛門佐」は2番御陣「大将島津義弘
 (忠平)」の内地頭・副将の一人。軍兵3万1千人。 
②「右衛門息喜右衛門(三河守)および「加賀守息源四郎」
 は、それぞれ御本陣「太守島津義久、大将島津歳久」の
 副将の一人として参戦。軍兵5万3千人。
③1番御陣「大将島津家久・島津征久」。
 新納忠元は副将・地頭の一人。 軍兵3万1千人。
②伊東家の嫡家 伊東右衛門佐、その子 喜左(右)衛門--肥前守祐貞・・・・
その子孫 伊東源右衛門。この家は御家中(島津家)において「嫡家」と称する。 
③島津家家臣となった時期 右衛門佐が何時の時期に島津家臣になったかは不祥。(別の史料に、天正5年伊東義祐の豊後亡命の時点で日向を去るの記録)木崎原合戦前以前惟新公 (義弘)が飯野にいた頃、伊東右衛門佐は馬越に移り馬越地頭であった。
④島津家中の処遇 従三位殿(義祐)の弟として処遇した。
木崎原合戦で戦死とされる伊東加賀守祐安とその弟右衛門佐は、従三位殿(義祐)の弟と言われる。
右衛門佐から3代祐貞(祐種)まで地頭で、その子孫源右衛門。
⑤その他一族 伊東仙右衛門・伊東傳左衛門もこの一族。
伊東作大夫先祖 井尻伊賀という者も、天正の初め伊東家から島津家臣になった。




薩摩藩「本藩人物誌」に見る伊東右衛門佐(助
①島津家臣になった時期 何れの代 に御家臣に罷成候哉不祥。
②子孫
     伊東源右衛門(家格「小番太刀」)


      
伊東家の家格(職制)「小番太刀」考察

③島津氏家臣以前経歴
惟新公(義弘)日向飯野へ被成御座候時分に馬越に移り地頭。
(永禄11年正月2日)
 
④戦歴・軍功 (1)忠平公(義弘)「羽月飛田瀬」の合戦にて御難戦の時抜
  群の軍功があった。
(2)天正9年の相良氏攻め「水俣御陣」には馬越より罷立候。
  肥後八代に在陣のとき軍功多し。
(3)天正15年豊後陣の折は、肥後の関城において賊兵がま
  さに立候時血戦して是を退治した。
(4)島津征伐のため秀吉御動座の砌、大口城に陣どり決戦を
  称え降伏に応じない新納忠元に対し下城つかまつるべき
  の島津義弘の御使者を相勤め候、新納忠元伝に見得たり。



              ■木脇大炊介祐兄流 伊東氏


(原因)西暦1512(永正9)日向伊東家当主尹祐の娘が薩摩の島津忠治に嫁いだ際御供入国


 西暦1510(永正7)伊東・島津氏間に「薩日隅大乱」が発生。これを冷却するため、同年12月23日当主島津忠治は、日向伊東家当主尹祐の娘を娶る。この婚約に基づいて、尹祐の娘は、ニ年後の西暦1512(永正9)日向伊東家から薩摩の島津忠治に嫁いだ。お輿入れの籠など宝物が、現在日南市にある飫肥城の資料館に展示されている。
 日向都於郡木脇(宮崎県)の領主の伊東氏は、伊東に代え木脇氏を称していた。その子木脇主税助は、伊東大和守尹祐の命で尹祐の娘が島津忠治にお輿入れした際に、お供をして薩摩に入国し島津家臣となった。
 そして、主税助の子大炊介祐兄は、島津貴久に仕え、その子若狭守祐光の子祐辰の代に14代日向伊東家当主大和守祐充の許可を得て伊東姓に改姓。関が原の合戦などに従軍。子孫は老中代,、御使役、地頭、奉行など薩摩藩の要職を務めた。

○始祖:大炊介祐兄=木脇越前守(若狭守)
 日向伊東家から薩摩に移り島津貴久に仕える。
○祐兄の子木脇伊賀入道正徹(祐光)
 貴久により島津歳久の後見役に任ぜられる。「木脇の嫡家」は刑部左衛門家。
○祐光の嫡子=刑部左衛門
 肥後花之山地頭 その嫡子と共に彼地にて戦死。
○刑部左衛門嫡子=三右衛門
 肥後堅志田地頭 三ノ山の戦いにて戦死。
○刑部左衛門二男祐辰
 伊東復姓初代。祐辰武功多し。文禄3年(1594)島津忠恒(家久)に従って御船奉行を務
 めて高麗国( 朝鮮)へ渡海。文禄4年朝鮮より帰国(文禄の役)。慶長2年(1597)
 島津義弘に従って兵具役として再  度朝鮮渡海。敵地進入。軍功あり。(慶長の役)。
 特に島津義弘に御供して関ヶ原の戦いに従軍し、義弘が、関ヶ原敵陣突破・退去の時、
 その殿(しんがり) を勤めて義弘を薩摩へ首尾良く帰国させた。その功により感状・
 知行受く。島津義弘逝去の時殉死。
○刑部左衛門祐光の三男
 木脇民部少将に付属していたため、豊臣秀吉から義久へ「島津歳久を成敗せよ」 との命
 が下り、島津家 の存亡を賭けて歳久とその随従の家臣団が自害した時、鹿児島の竜ヶ水
 にて歳久に殉死。
○刑部左衛門祐辰嫡子祐昌
 伊東肥後守祐昌を称し、水引、頴娃、栗野地頭、お使役、慶長19年大阪冬の陣弓奉行。
 寛永9年 兵賦奉行。島津綱久公初入部時は老中代を勤める。
○祐昌二男六右衛門祐章:御納戸奉行。川内、山田、吉松などの地頭。
○祐辰二男伊東三左衛門祐玄:御使役、串木野など地頭。


         
■井尻九郎祐宗流・伊尻常陸流 伊藤氏(出水移住)


 薩摩出水の伊藤氏は、「日向伊東氏」と同じ「藤原姓伊東氏」であることは大正10年に公爵島津家編纂所によって完成をみた「藤原姓 伊藤家系図(全)」によっても明かである。
しかし、その具体的な由来には二つの説がある。その一つは、伊豆国・伊東(伊藤)祐親の子祐清流(曽我氏をも称した)、もう一つは、「日薩隅三国大乱」に始まる紛争を背景にして、当時の日向伊東本家一族から転じて、島津忠良・貴久に帰属した伊東氏(例えば天正6年11月12日日洲高城戦死とされる伊東常陸守流)である。

1)島津氏の発祥と伊豆国・伊藤(伊東)祐親流

 始祖は相模国の伊藤(伊東)祐清。西暦1196年(建久7)島津忠久が関東から薩摩に入国した際、随従した家臣団33家の一つで、子孫は井尻・伊尻・伊藤を称す。
 島津家一族の内戦が燃え上り大乱期となった西暦1526年(大永6年)、薩摩半島に位置した伊作家の島津貴久と後見人の父忠良(日新斉)は、鹿児島の本城・清水城の島津本家・島津勝久に退去を迫り一旦清水城を押領していた。しかし、翌1527年(大永7年)当主勝久は、薩州家の島津実久と連合して鹿児島の清水城を襲撃した。その際、貴久と忠良は夜逃げ同然に清水城を出て小野(吹上町)に脱出した。

この時、貴久の御供の中に「井尻九郎次郎祐宗」がいた。この祐宗の母は、宇多貞次の女子で井尻祐宗を生んだ後、島津貴久の乳母となり貴久の養育に当たった女性である。貴久の危機一髪、島津実久の襲撃を貴久に密かに知らせたのも祐宗の母親であった。井尻は伊藤の分家といわれ、その子孫が「伊藤七左衛門家」であるという。しかし、井尻氏先祖の宇田氏の詳細は秘密にされ不祥である。

 平安時代後期、伊豆国で伊東郷を伊東荘(伊東氏)として開発をすすめ、はじめて伊東を称したと言われる藤原(工藤)家継が「狩野祐隆」とも称して「祐」の元祖となった。 いわゆる伊東祐親・祐経の祖父である。 祐親の子・祐清の系統は、曽我流を称しているがそれは再婚した母と共に曽我家に寄ったためであり、その通字に祐隆の「祐」を用いていて、実は日向伊東氏と同族の藤原南家伊東氏族である。

 島津(惟宗)忠久と伊東祐清との接点は、忠久の母とされる丹後局おその母・「比企尼」で比企尼は、頼朝の乳母とされ伊豆において比企尼は平家によって流罪中の頼朝のためにによく尽くし、また伊東( 祐親)家に親しく、その 祐親の二男祐清の室は比企尼の女子であった。伊豆時代、伊東家と比企家は縁戚であり、惟宗忠久の乳母に当たる比企尼にとって伊東祐清は娘婿であった。このように島津元祖忠久の薩摩下向と比企家、伊藤家、曽我家の薩摩入国は不思議と深く絡んで要る。
 また、島津忠久の出生の真実については、歴史的に諸説があり確定的では無いようである。
島津氏の日本史は、鎌倉時代に始まりそれ以前の歴史は明らかではないという。近年、島津氏出自の定説となってきた精緻な歴史研究として「朝河貫一著 島津忠久の生い立ち」が有名である。これによると、島津家による始祖忠久の出自にかかる説明は、鎌倉時代から江戸時代を通じ時代とともに変わってきたという。その変遷を振り返ると、最初、鎌倉時代には島津氏が自他共に称したのは「惟宗氏」であり、次いで、朝廷の威光優位の室町・戦国時代になると、薩摩島津荘の領主近衛家(藤原氏)の家司であった所縁によって「藤原氏説」を掲げ、武家時代に変わった室町・江戸時代に至っては「源氏頼朝ご落胤説」を全国的に広め、さらに江戸時代は徳川氏との政治抗争の中で、島津始祖・忠久は、源平合戦の火ぶたを切る令旨を源頼政(摂津・清和源氏)に与えた以仁王(後白川天皇の第三皇子)のご落胤であるとの私生児説をも唱えたという。ただ、この説はあまり広がらなかったとされる。また、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」その他の諸種の家系史料によると、このような島津氏自身による諸説変化の底流には、島津氏はやはり惟宗氏であり、惟宗氏はもともと大陸渡来系の秦氏の流れを汲むからであるという。
参考:朝河貫一「島津忠久の生い立ち」をめぐって(矢吹晋)

 なお、これらの説には取り上げられていないが、静岡県には「郷土史に残る八重姫伝説」があり、実は、島津氏祖・忠久は、伊豆国で最高の歴史的な悲恋物語となった「頼朝と伊藤(東)祐親の四女の八重姫との間に誕生した<千鶴丸>である」という一説がある。その伝説によると、伊東祐親は、自分の娘(八重姫)が生んだ頼朝の可愛い孫<千鶴丸>を、京の平家に露見して表沙汰にならないように、密かに斉藤五郎・六郎の兄弟に頼んで「甲斐源氏の辺見家にかくまってもらい義長を名乗らせた。同時に、<祐親が轟ヶ淵に沈めて殺した>という虚報を広めさせて平家からの追求を回避する策をとった。この千鶴丸が後に島津忠久になり戦国大名島津家の祖となった」という。

 確かに、伊東祐親ほどの大豪族・人物が、源氏の棟梁頼朝の幼子で且つ祐親自身の女(むすめ)の可愛い孫であった千鶴丸を殺害するという伝説(おそらく北条時政の創作と思われる)は信じ難いものである。北条氏と比企氏による工作があったことは容易に想像され、しかも薩摩島津氏の発祥と家臣団の周辺には、比企氏、伊藤氏、曽我氏などが多く見られ伊豆国の深い縁を伝える歴史は少なくないのである。もし出来ることなら、その真実を、頼朝やその側近工藤祐経、否、北条時政や伊東(伊藤)祐親自身にも聞いてみたいものである。


(2)日向戦国大名伊東氏分家・伊尻常陸流伊藤氏

 伊東祐清から神功坊(井尻宗憲)までの「井尻氏先代」に対し、「神功坊の養子」であった祐存は、「常陸坊」ともいい日向諸県郡飯野郷(えびの市)をはじめに同郡高岡郷・姶良軍蒲生郷などを経て、慶長5年薩摩の出水郡出水郷(出水市)へ移住した。
 そして、元和6年祐存の子・祐忠に至り「井尻氏」を先祖本来の姓である「伊藤氏」に改めている。しかし、何故「伊藤氏」が「井尻氏」に改姓しなくてはならなかったかは不明であるが、おそらく島津家臣となった特別な事情・経緯のために「相模国・伊藤流」や「藤原性・伊藤氏」を強調する必要があったのであろう。

 そして、元来の鹿児島の島津本家を豊後に追放し入れ代って戦国島津家を樹立したのが島津忠良(日新斉)。忠良の父は伊作9代島津善久、祖父は8代島津久逸、その曽祖父は島津忠国、母は島津一族の日向飫肥の新納是久の娘で、後に有名になった「常盤御前」であろ。
 すなわち、飫肥の新納家の娘が島津家中興の祖・島津忠良を生んでいる。しかも、鹿児島の島津本家は、第8代豊久、第10代立久、第12代忠治と3代にわたり日向伊東家から室(夫人)を迎え、第8代伊東祐安、第10代祐尭、第12代尹祐は、それぞれ島津本家の「舅殿という特別な縁戚関係」にあった。そして、島津家一族の内戦・大乱期であった西暦1526年(大永6年)~翌1527年(大永7年)の時期、島津氏一族の内乱に日向伊東本家尹祐(ただすけ)は、第12代島津当主・忠治および飫肥の新納宗家・新納忠勝の舅殿として大きくからんでいた(日薩隅三国動乱)。
 このような伊東・島津両家の血縁関係の中で、伊作家の島津貴久と後見人の父忠良(日新斉)
が、小野(吹上町)に避難したときに従った「井尻九郎次郎祐宗」とその子孫
「伊藤七左衛門家」とは、通字に祐秀、祐宗、祐玄、祐忠など「祐」を用いており日向伊東氏族である可能性が強いという。
 南九州の覇権を争う島津・伊東の両家が、戦国・下克上の厳しい対立関係にあったこの時代故あって島津家に参じた伊東氏にあっては、島津氏のご家中において、その出自の説明に種々の用心・工夫がなされたと推察され、多くの場合「父祖の系を欠きたり」とされている。
 このような、流れで観るとき、慶長19年9月大阪夏の陣戦死の「伊尻常陸」とは、天正6年日向高城合戦で戦死とされる「伊東常陸守」(伊東祐梁流)とつながるのかもしれない。
参考文献:①「戦国島津女系図」<人名検索><宇多貞次女(井尻祐元室)>
       http://www.realintegrity.net/~shimadzu/index.html
     ②武家家伝<新納氏>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/niro_k.html



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□<引用・参考史料

○「諸家大慨」(玉里公爵島津家所蔵 鹿児島県立図書館複製)
○木崎原合戦記(旧記雑録)
○島津氏「天正九年 水俣御陣人数賦」(鹿児島県立図書館所蔵)
○「本藩人物誌」(鹿児島県立図書館所蔵)
○秀吉九州征伐戦時「曽木天童ヶ尾陣」新納忠元伝(大口市史・中世)
  「伊東右衛門佐 大口城下城・忠元説得 義弘之使者」
○薩摩藩「諸郷地頭系図」(鹿児島県立図書館)
○聚史苑「日向伊東氏家臣一覧および中世日向国関係年表」(FUJIMAKI sachio)
○伊東源右衛門家戸籍史料(天明年間~明治4年以前相続・鹿屋郷/鹿屋市役所)
○「伊東一族」(日本家系家紋研究所発行 昭和58年)
○「さつま」の姓氏(川崎大十著 高城書房発行 平成12年)
○幕末薩摩藩士 陽明学者『伊東猛右衛門祐之とその家系」 
 <茂右衛門・直右衛門・武右衛門とも呼称>(調査報告・大平義行 鹿児島県立図書館)

○日向記
○「日向国盗り物語」石川恒太郎(学陽書房 昭和50年)
○中郷史(鮫島政章編 非売品 昭和25年1月5日発刊 伊東明氏提供))


<あとがき>

 
薩摩の伊東氏については、わかりやすい比較的まとまった系譜史料が少ないのに加えて、その歴史・由来についての解説も見当たらなかった。そこで手元にある蒐集した関係史料および僅かに残る断片的な家伝を活用して、薩摩の伊東氏の歴史を具体的に調べて検証した。本稿の編纂はとても完璧とは言えないが、史料の不足や史実の誤解等のわたくしの力不足でご期待に添えないところはお許し頂きたく、また、それらの点の補足・修正は歴史研究の後進の方々のご活躍に期待している。本稿は、取りあえずまとめ、先ずはここに公開することにした。
 当サイトを一つの契機として、引続き各地に埋もれた薩摩伊東氏の系譜・歴史が更に発掘・公開され日の目を見るようになり、今後その内容が一層充実していくこと期待したい。
 それは、日向流薩摩伊東氏の歴史、ひいては「奥深い隠された島津氏・伊東氏関係史」を補完する興味深い史料となると思考するからである。
 
 薩摩伊東氏の先祖の方々は、それぞれの厳しい時代環境の中で、それぞれの歴史や宿命を背負い自らの運命の荒波に翻弄されながら、人間として天地一杯に生き、懸命に活躍して来たに違いない。
本稿が、そのご先祖の魂に対する些かの追悼となり、俗世の賛歌となれば大変嬉しい。



伊東家の歴史館
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薩摩(鹿児島)伊東家墓所