<薩摩の伊東氏>

<家格>「小番太刀」由来


「薩摩藩の職制表」の解説には、「小番」(こばん)とは「一所持(宗家子孫の私領持ち)または家老を務めた家の子孫」とある。
島津一族でなく、歴史的に敵対関係にあった「諸氏」の出自である伊東氏が、小番筆頭格の「太刀」の家格であったことは、島津家において伊東氏の扱いが特別であったことを示している。そこには二つの背景が考えられる。


 
その第一は、「近習・小番」は朝廷や幕府からみて「武家の藤原氏」である日向伊東氏の歴史的な官職であったこと。
第二は、伊東本家が没落した後約10年間の島津氏の占領政策のもと、お家再興のため島津家臣となって服した「伊東右衛門佐(祐審)」は薩摩伊東家の始祖とされた。両家は元来歴史的な縁戚・血縁関係にあり、且つ伊東右衛門佐(うえもんのすけ)は、
伊東崩れの数年後には「島津義弘の内地頭(直臣)で、後に家老職」の重臣のポストにあったこと」に由来すると思われる。(島津義弘のすべて「三木清編」新人物往来社)

 「小番太刀」とは、小番であって「太刀献上」の家格を意味し正月や重要任務、家督問題、栄典・祝事などの主要な機会において、藩主の御前に着座し直接お目通りして、「太刀」や縁起物を献上したり、祝いの酒盃を頂戴する位置にあった上級家臣の家格。
 
薩摩伊東家の職種「小番」に関しては、政治向きの表家老に属した「藩主の近習職」で、御屋形奉行など藩主を護衛したり、藩政上の見回り監視役(目付・吟味役)、政務官僚としての「使者の役」など馬上を許された「騎乗士」の家であったこと、また海上では外国船に関する監視・取調べの「御船奉行」や「異国船取締掛」であったことなど、当時の地上・海上の警察・治安機能担当であったとの家伝や史料が残っている。
 
そして、伊東家には「白馬の騎乗士」であったという家伝も残されているが、実はこれが「小番太刀」の家格を外見的に表徴していたのかもしれない。また、海軍元帥・伊東祐亨家などの家譜記録には、この家格を裏付けるように随所に「御目見」(おめみえ)の記録がみられる。

 
家格を表す「小番太刀」は、薩摩藩では大口の新納忠元家の家譜の中にも見られ、他藩では上杉家臣団、伊達家仙台藩などにも見られる。従って、伊東家は島津一門家に当たる上級家臣ではないが、「諸氏の中では上級の家格」であったことが窺われる。この家格は、藩主に拝謁・近習して、藩主と藩政を警護し支える親衛職である点で、幕府の「旗本」のような位置関係でもあったとも思われる。

 
もともと「小番・大番」の役職は、近習・身辺警護「小番役」境内の門・市中警備「大番役」の関係で、平安時代から鎌倉時代そして室町時代にかけ朝廷や幕府にあり、これが後に各地の武家の藩政にも広がったもの。朝廷で「小番衆」は天皇や上皇(院)に近習して皇居を警護したり日常の特命の任に就く役目(武者所)であり、「大番」は皇居や院と京の市中警護の役であった。

 「小番の源泉」を辿れば、古く奈良時代から天皇と公家の間にあった「禁裏小番」の役があった。平安時代の伊東家は、先祖工藤祐継、工藤祐経などが平重盛に属して皇室の「武者所」に召し出されて天皇と朝廷の警護の役であった。そして皇室と伊東家とのこの歴史的な関係(武者所)は鎌倉時代になっても継続していた。
 因みに、朝廷の任官おいて宗家であった先祖工藤祐経は朝廷の近習「小番役」(武者所)、他方従兄弟(庶氏)で義父であった伊東祐親は境内・市中警護の「大番役」であった。また、記録によれば工藤祐経は、仁安4年(1169)から寿永2年(1183)まで約15年間在京して、
皇居「清涼殿」の「武者所」(滝口)に出仕し、皇室の警護・安寧の任務に近習していた。

 
このような「近習・小番役」の伊東家の歴史は、おそらく平安前期の「平将門の乱」において、朱雀天皇の命により京から関東へ出陣し、騒乱を鎮定する軍功を挙げるなど、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇3代(西暦901〜947)に仕えて甚だ信任の厚かったと言われる<南家の藤原氏>で、<武将の始祖>となった先祖「藤原為憲」(藤原鎌足第11代)にその源泉があったと推察される。 


      参考:
<工藤・伊東氏元祖>藤原為憲