平将門と藤原為憲




 平将門は、以前から従兄弟に当たる平貞盛と不仲で幾度か暴力事件起こし、貞盛はこのことを朝廷に告訴し将門糾問の宣旨となった。

 承平五年(935)、平貞盛は、常陸国司朝臣・藤原維幾らと協力して国府の軍隊兵器を用い将門の討伐を始めた。しかし、将門はこれに先手を打ち天慶二年常陸国府に攻め入り、約千人の精兵で国府の三千余人を打ち破り、国司藤原維幾らを捕らえ国印・倉鍵を奪ったのであった。いわゆる平将門の乱である。

 常陸国は、当時全国で三つの大国の一つに数えられる国柄で、朝廷にとっての重要拠点でもあった。
しかし、国司の藤原維幾は、この争乱の発生の予防とその鎮圧に効果的な対処ができなかった。

 そして朝廷の命をもって、維幾嫡子の朝臣藤原為憲と俵藤太(藤原秀郷 奥州藤原氏の先祖)が下向し、貞盛と三者連携して協力しついに将門討伐に成功したのであった。

 当時、維幾の妻は、桓武天皇曾孫で平氏祖高望王の王女に当たる、平国香(平清盛の七代前の先祖)の子貞盛の姉であった。
 しかも、この女性は将門の叔母に当たる人でもあったので、このような親王家同士の板挟みとなった人間関係、なかんずく姻戚関係が維幾の貞盛への追随をさせる一方、将門に対する大胆な対応と決断を難しくして乱の発生に繋がったとも言えよう。

 ただ、維幾にとってせめてもの救いは、嫡男為憲が朝廷派遣官軍の「武将の初め」となって、果敢な活躍をし将門討伐に成功したことであった。朝臣藤原為憲は、平将門の乱を平定した功績により朝廷より受勲の栄誉に輝き、従五位下・木工介に就任した。これは、功績に比べやや低かったが、「父維幾の立場の無力」が大きく影響したと言われている。為憲は、木工介就任を機に、藤原姓のほか藤原と木工の一字づつを組み合わせた「工藤姓」を下賜されて名乗り、工藤・伊東の元祖となった。また、藤氏の家紋に加え木瓜に庵を被せた「庵木瓜」の家紋が新たに制定された。