--日向伊東氏 中興の祖--
名将 伊東祐堯



                       <日向国>南北朝時代

 
南北朝期に転じて、建武2年(1335)3月4日、祐時四代孫の宗家「伊東祐持」は、はじめ北条時行に従って戦いその敗戦後は、足利尊氏に味方して随従し歴史を飾る相模川の先駆、京都三条河原の合戦、勢多の後攻め、楠木正成・新田義貞との攝津、湊川の合戦など各地に転戦。尊氏からの信頼厚く、要請により恩賞として得た日向国・都於郡300町の領地に、伊東氏本城「都於郡城」を築城し、貞和4年には「検非違使」に任命され上洛するなど足利政権の成立に尽力した近習の御家人として仕え護国の陣を張って数百年。鎌倉の当初、頼朝・祐経に始まる日向伊東氏と薩摩島津氏との隣国のよしみと信義は、両家の歴史的因縁・政治の綱引きも絡んだ南九州の覇権をめぐる止む無き抗争のためにやがて失われた。

                       
<日向国>室町時代

 日向・薩摩・大隅三洲を巡る南九州の島津氏と伊東氏の抗争は、実は、わが国の戦国史においても極めて特異な長く烈しい戦いであった。そして、両国は戦国時代が終っても明治維新を迎えるまでは厳しい特別な緊張関係を引きずっていたと言う。

 室町幕府の新体制は、鎌倉幕府(北条執権)旧体制の統治システムであった「守護・地頭制」に代わって、中央政権の鎌倉府、関東管領の他、各地方に九州探題などの探題を設置して守護大名や武将を監督し、軍事面では①守護被官体制と、②足利将軍と直結した御家人からなる「将軍直轄軍」の遠近二本柱の体制を採った。
特に将軍直轄軍は、小番衆(こばんしゅう)または奉公衆と呼ばれ、将軍の側近として警護に当たる近習(きんじゅう)などの親衛隊に直結して編成され、身分的には足利幕府の成立に貢献した「御目見え」以上の直勤御家人たちであった。
 九州において幕府は、九州探題の今川了俊のもとこれを支える在国の奉行衆(右筆)30余人がいたとされるが、奉公衆・小番衆(こばんしゅう)に対し永代御所奉公の名跡によって、守護大名の牽制・統制を含む治安維持と財政的支援の双方の任務を課したものであったことが伺える。(福田豊彦氏、川添昭二氏による奉公衆・小番衆に関する引例)

 そして、朝廷・幕府双方にとって歴史的に重要な戦略拠点であった日向。その守護にあたる伊東氏は、応永2年(1395)「薩摩・禰寝文書」の「京都不審条々」の中に、伊東大和守(伊東祐安)がその幕府直轄の「小番衆」として見え、「小番家・奉公衆」に任命されていた事実が記されている。
 また、応永7年(1400)になって将軍足利義満は、日向国を室町幕府の経費・財政を賄う「幕府料国」の一つに指定した。
 これによって、伊東氏は旧来の守護大名の力から独立した「守護使不入権」を有する奉公衆として幕府の守護に当たると共に、幕府直轄領である日向国の「御料所の管理者」になったのである。そして、後に約90年間もの間「飫肥城攻防戦」を繰り広げた飫肥一帯も実はこの幕府御料所の内にあったあったという。幕府御料所の存在が、海上交通・交易に便利な港湾を有し地政学的に重要な飫肥一帯にも及んでいたことが、伊東氏・島津氏が飫肥城の争奪戦を執拗に繰返した根源的な要因であったことが研究者によって指摘されている。

 しかも、このことは幕府、近衛家ともに重大問題と認識し、永禄3年には近衛植家によって島津・伊東両氏の合戦を非とする御内書が発給された。だが、それによっても島津氏方の侵攻は止まず、幕府特使・伊勢貞孝、永禄六年には伊勢貞連らが下向し島津方と談合を行った記録が残されている。島津氏にとって飫肥の問題は、伊東氏との関係以上に幕府との関係において頭痛の種であったことは間違いなさそうである。

①「戦国大名島津氏と地頭」(福島金治氏)。②「島津貴久から義久への書状」が残されておりその書中、「永禄3(1560)年 将軍足利義輝は島津貴久に書を送り、二十年来島津氏と伊東氏が争った飫肥について幕府の直轄地とし、そのうち伊東分は伊東義祐へ帰属する」旨採決した。<黎明館受託史料>

 島津氏の旧姓は惟宗氏であったが、「島津院」が近衛家の荘園であったことから「島津氏」を名乗ったとされるように、島津氏は歴史的に京の摂関家と緊密な関係にあり、その政治的後押しを積極的に活用した。そして暦応元年(1338)島津貞久、応安八年(1375)島津氏久、応永十一年(1404)島津元久が日向守護に補任されている。
 他方、藤原氏(南家)である伊東氏は、在国小番家として「永代御所奉公」の名跡によって幕府と緊密な関係にあった。
 伊東氏と島津氏との本格的な抗争の始まりは、応永四年(1397)のこととされている。以来、十四世紀末から十五世紀前半にかけて、川南の支配をめぐって争いが続きこの争いを通じて荘園は武家によって押領されていった。島津氏と伊東氏との争いは、結局、天正五年(1577)伊東氏が日向を追われるまで約90年以上続くのである。


                     
 伊東氏48城・南九州の覇者

 「伊東氏全盛の基礎」がつくられたのは十五世紀の中頃であった。祐堯・祐国二代のころから次第に強大となり、祐堯は1440~1450年にかけて、川南の曾井城、石塚城を中心に領域を拡げ島津氏を山西に退けた。康正二年(1456)には土持氏と戦い、長禄元年(1457)に財部土持氏を旗下に入れた。以後、日向国は十五年に及ぶ静謐の時期が続いた事実は、伊東氏が幕府の力を背景にしながら島津氏に対抗できる体制を整えたことが知られる。

   
群雄割拠の幾多の勢力を平定し、<日向の最大勢力>伊東氏の基盤を確立した名

 このように、伊東氏は南九州において室町幕府を支える親衛隊・執行者(代官)の地位を与えられ、朝廷・幕府への奉公に努めたのであった。
 伊東氏の歴史書「日向記」には、それを裏付ける記録として伊東氏とその要人の上洛や、幕府要人の日向往来が頻繁であったことを窺い知ることができる。伊東氏は、同時に台所の苦しい幕府・朝廷に対して、物資・財政両面での支援・奉公も活発に行ったと推察される。

 伊東祐堯は、日向伊東氏の第5代当主である。日向記、伊東氏大系図等によると、父祐立の死去により36歳で家督を継ぐ。祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督奪取を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し、結果、祐堯を擁立したとある。祐堯は、やがて反抗的な一族の討伐に乗り出したが、先ず曽井氏を宮崎城に攻め滅ぼし、翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めた。

 日向に武威を示すと、次に京都(幕府)に働きかけて守護職を求めたが、土持氏の抵抗で実現しなかった。そこで康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までの領土を支配するようになり、一方、度重なる島津氏の侵略を退治した。
まさに、室町時代に日向国地頭の伊東氏が、「足利政権の小番衆」(旗本)として日向に進出以来、遂に日向の実効支配を勝ち取った「輝かしい到達点」の時代でもあった。

 寛正2年3月(1461)、後花園天皇に御所奉公して功あり、将軍義政より当時の国主「伊東祐尭(すけたか)」に日向・薩摩・大隅三州の将帥に任ずる旨の文書が発給された。その御教書には

 
 「日薩隅三ヶ国の輩は、すべて伊東家の家人たるべし。但し、島津、渋谷はこれを除く」とある。

 祐堯は、日向伊東氏の歴史の中で知勇兼備の武将として際立っており、人物のスケールの大きさと卓越した政治力を発揮し、国内外において日向伊東氏の存在感を急速に高め、人物・業績両面から日向伊東氏の中興の祖となった。男女25人の子に恵まれ、祐堯の勢いを彷彿させる武将の一大家系である。
 寛正六年(1465)には、また伊東祐堯女が島津当主・立久に嫁ぎ、祐尭外孫で後の当主「島津忠昌」が生まれる。この頃より、伊東氏の支配力は相当強化され、飫肥城100年合戦の攻防が激しくなる。

 

 また、文明18年(1486)、その祐堯の子孫伊東祐良は、将軍足利義尹の偏諱を受けて「伊東尹祐」に改名。天文6年(1537)には、尹祐の子伊東祐清が、将軍足利義晴に偏諱を受けて「伊東義祐」を名乗った。「大膳大夫」(天文10年)、「幕府一代御相伴衆」(天文17年)。永禄4年(1561)には、地方の戦国大名としては破格の「従三位」の官位を受けるなど叙勲が続き日向伊東氏の最盛期を招来した。
 このように、南北朝期に鎌倉・伊豆など関東から日向国に移り住んで以来、この日向・大隅・薩摩にわたり伊東氏48城を擁し、華やかな繁栄の基盤を築き上げることができたのは、この名将:伊東祐堯の存在であった。



                
<伊東祐堯の履歴>

氏族  藤原姓 伊東氏
時代  室町時代
生死  生誕:応永16年(1409年) 死没:文明17年4月28日(1485年6月10日) 享年76歳
別名  六郎・大和守
墓標  伊東祐堯の墓 都於郡城 大安寺(初め惣昌院)跡および伊東祐堯の墓(清武町指定史跡)文 明17年(1485)飫肥の島津攻撃に出陣時、清武城で病死。戒名:源徳本公惣昌院
父母  父:伊東祐立(伊東祐武)
兄弟  祐家、祐堯、祐郡
 正室:土持氏女
 女(土持堯綱室)、祐国、女(島津立久室)、祐邑、祐英、祐円、祐兄、
 女(佐土原豊前守室)、祐岑、
 女(右松宮内少輔室)、幻生、玉阿、大賢、
 男(出家)、一海法印、男(出家)、祐具、
 祐運、女(長倉若狭守室)、女(伊東美作守室)、女(佐々宇津近江守室)、
 女(清武三郎室)、女(上別府尾張守室)、女(清武兵部少輔室)、女(伊東河内守室)