伊東氏あらまし


<2005.10.16室町期の追補>
2005.11.12室町期の追補

   
                <日本列島>
          工藤・伊東(伊藤)氏1400年の御縁
(ゆかり)と謎


1 奈良時代/平安時代 5 日向国・戦国時代
2 伊豆国・鎌倉時代 6 没落と再興 豊臣時代
3 日向国・南北朝時代 7 飫肥藩・徳川時代 
4 日向国・室町時代 8 工藤・伊東氏のゆくえ

1 奈良時代・平安時代

 伊東氏またその伊藤氏の由来は、大化1年(645)飛鳥京における大化の改新・藤原鎌足、和同3年(710)平城京遷都を行った鎌足の子不比等の嫡流として、奈良・平城京において武智麻呂、その子豊成・仲麻呂・乙麻呂そして巨勢麻呂と栄えた公卿の「南家」藤原氏(奈良の藤原氏)。 その後、延暦13年(794)桓武天皇に導かれて平安京に移ってからは、はじめは公卿、式家および後に公卿を占有した北家(京の公卿・藤原氏)に対し「武家の藤原氏」に転向。天慶2年(939)東国に起きた「平将門の乱」を鎮定するため、翌天慶3年2月、朱雀天皇の信篤く朝廷によって俵藤太(藤原秀郷)と共に京から派遣され、激戦のすえ将門を征伐し平安文学「将門記」を飾る主役の一人となり、またその軍功によって「工藤の新姓」を下賜され「武家の統領となった藤原(工藤)為憲」。
 
「工藤伊東氏元祖」
藤原為憲(工藤為憲)
 加えて「工藤=宮藤(くどう)」とも称して宮内省木工寮次官・宮殿造営職の「木工介であった藤原氏」。また皇室との縁深く「勇士の家門」として歴代「皇居(清涼殿)の武者所」に就任し、平安時代末期には長官・左衛門尉であった工藤祐経(藤原祐経)。

 また、天安2年(858)藤原北家の良房・基経とつづく摂関政治の独占が進む一方、荘園の発達と東国の武士団が勃興する天下の新たな趨勢を計り、政治の要衝で南家の活躍の場はほとんど失われつつあった朝廷政治の将来に見切りをつけ、応徳2年(1085)京から伊豆国に移り住んで数代後の当主「工藤家継」は、狩野祐隆とも称して「伊東氏/伊藤氏の元祖」併せて歴史を飾る通字「祐」のはじめであった。
その工藤家三男・伊豆介「狩野茂光」(祐親・ 祐経の叔父)は、保元・平治の時代、伊豆国の狩野荘および伊豆七島(大島・三宅島・八丈島・神津島等)の領主であった。時に、源頼朝の父・義朝の政敵で大島に流罪中であった八幡太郎義家の孫・鎮西八郎「源為朝」が、茂光の領地であった大島はじめ五つの島を占領し年貢も出さず、鬼が島(青ヶ島)に渡り横暴・争乱を極めたため、茂光は自ら上京しはじめ高倉天皇へ奏問し、次いで後白河法皇の院宣を受けて為朝平定将軍に任ぜられた。
 そして、遂に嘉応2年(1170)伊豆・武蔵・相模の諸国の軍勢と船団を率いて大島に押寄せ争乱を平定して「保元物語」を飾り、

2 伊豆国・鎌倉時代

 「吾妻鏡」「源平盛衰記」等の史記・物語等によると、治承4年(1180)源頼朝によて挙兵された「源平の合戦」では、工藤伊東宗家「工藤祐経」の後見役であった立場を利用して伊東荘等を領有し伊豆国隋一の豪族であった「河津改姓伊東祐親」は、平家恩顧の家臣として石橋山の背後に布陣し頼朝と戦った。しかし、 祐親以外の工藤伊東一族は、元暦元年(1184)歴代源氏家臣として揃って頼朝の平家追討大手軍(大将:範頼)の副将として戦う。宗家「工藤祐経」は、鎌倉幕府開府期に将軍頼朝に近侍して最も信頼を受ける大臣・寵臣となって鎌倉幕府政治体制の構築に尽力。しかし頼朝の側近を務めて10年後の建久4年(1193)頼朝を挟んで幕府重臣たちの激しい抗争の中、5月8日から6月7日までの予定で源頼朝が富士野において催した巻狩り(大軍事演習)において、5月28日雷雨とどろく夜半、宿所で就寝中に元来平家家臣であった北条時政と頼朝弟の範頼の反体制の謀議に先導されたとされる曽我兄弟(伊東家同族)の仇討ちに遭遇。歴史に残る劇的な死を遂げて日本の文芸と歌舞伎に「曽我物語」・「曽我もの」を残しながらも、この宗家工藤祐経の暗殺によって頼朝妻政子を通じ頼朝舅の地位を得た北条時政たちまち躍進。将軍頼朝の「強固な防波堤」であった祐経の排斥(暗殺)が突破口となって、以後、相模川橋の完成祝いの帰途落馬とされる頼朝の変死、そして頼朝を支えてきた有力鎌倉御家人の連続殺害事件が発生。 やがて、伊東氏先祖数代(工藤為憲孫の祐景から維職、維次、家継、祐継、祐親・祐経まで6代)にわたる荘園開発の労苦の染みついた本貫地・伊豆国は、伊東祐親の娘(政子の母)婿であった北条時政によって、時政・政子・義時親子と続く北条執権の巧妙な手中に帰し、子孫は日向・奥州など各地へ下向した工藤祐経その嫡子工藤・伊東祐時(左衛門尉・三郎)」。<参照>「富士の巻狩コース」解説 富士宮市文化課ホーム http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-bunka/ccourse.htm>


3 日向国・南北朝時代

 更に、建武2年(1335)3月4日南北朝期に転じては祐時四代孫の宗家「伊東祐持」は、はじめ北条時行に従って戦いその敗戦後は、足利尊氏に味方して随従し歴史を飾る相模川の先駆、京都三条河原の合戦、勢多の後攻め、楠木正成・新田義貞との攝津、湊川の合戦など各地に転戦。尊氏からの信頼厚く、要請により恩賞として得た日向国・都於郡300町の領地に、伊東氏本城「都於郡城」を築城し、貞和4年には「検非違使」に任命され上洛するなど足利政権の成立に尽力した近習の御家人として仕え護国の陣を張って数百年。鎌倉の当初、頼朝・祐経に始まる日向と薩摩の隣国のよしみと信義は、両家の歴史的因縁・政治の綱引きも絡んだ南九州の覇権をめぐる止む無き抗争のために何時しか失われた。


4 日向国・室町時代

 
日向・薩摩・大隅三洲を巡る南九州の島津氏と伊東氏の抗争は、実は、わが国の戦国史においても極めて特異な長く烈しい戦いであった。そして、両国は戦国時代が終っても明治維新を迎えるまでは厳しい特別な緊張関係を引きずっていたと言う。それは、
⑤福沢諭吉が「文明論之概略巻之六 第十章自国の独立を論ず」(上田修一氏HP/全文テキスト)
において、島津氏の侵攻によって一旦日向国を滅ぼされた伊東氏が、朝夕の戒めとした政治の用心こそ、西洋列強に伍して文明国を目指す日本にとって、国家護持には欠かせないあるべき為政者・国民の気構えや執念でなければならない、として諭したほどの歴史的な出来事であった。
 ところが、島津氏と伊東氏との間に、そこに至るまでにどのような立場や事情、いかなる特殊な背景が存在したのかについては一般にあまり知られておらず誤解も多い。そこで、日向国の歴史と日向伊東氏についてより正しい理解に到達するために、当事者間に存在した根本的な背景について、ここで少し具体的に触れておくことは有意義と思われる。

 室町幕府の新体制は、鎌倉幕府(北条執権)旧体制の統治システムであった「守護・地頭制」に代わって、中央政権の鎌倉府、関東管領の他、各地方に九州探題などの探題を設置して守護大名や武将を監督し、軍事面では①守護被官体制と、②足利将軍と直結した御家人からなる「将軍直轄軍」の遠近二本柱の体制を採った。特に将軍直轄軍は、小番衆(こばんしゅう)または奉公衆と呼ばれ、将軍の側近として警護に当たる近習(きんじゅう)などの親衛隊に直結して編成され、身分的には足利幕府の成立に貢献した「御目見え」以上の直勤御家人たちであった。九州において幕府は、九州探題の今川了俊のもとこれを支える在国の奉行衆(右筆)30余人がいたとされるが、奉公衆・小番衆(こばんしゅう)に対し永代御所奉公の名跡によって、守護大名の牽制・統制を含む治安維持と財政的支援の双方の任務を課したものであったことが伺える。
④「福田豊彦氏、川添昭二氏による奉公衆・小番衆に関する引例」

 
そして、朝廷・幕府にとって歴史的に重要な戦略拠点であった日向---その守護にあたる伊東氏は、応永2年(1395)「薩摩・禰寝文書」の「京都不審条々」の中に、伊東大和守(伊東祐安)がその幕府直轄の「小番衆」として見え、「小番家・奉公衆」に任命されていた事実が記されている。また、応永7年(1400)になって将軍足利義満は、日向国を室町幕府の経費・財政を賄う「幕府料国」の一つに指定した。これによって、伊東氏は旧来の守護大名の力から独立した「守護使不入権」を有する奉公衆として幕府の守護に当たると共に、幕府直轄領である日向国の「御料所の管理者」になったのである。そして、後に約90年間もの間「飫肥城攻防戦」を繰り広げた飫肥一帯も実はこの幕府御料所の内にあったあったという。幕府御料所の存在が、海上交通・交易に便利な港湾を有し地政学的に重要な飫肥一帯にも及んでいたことが、伊東氏・島津氏が飫肥城の争奪戦を執拗に繰返した根源的な要因であったことが研究者によって指摘されている。 しかも、このことは幕府、近衛家ともに重大問題と認識し、永禄3年には近衛植家によって島津・伊東両氏の合戦を非とする御内書が発給された。だが、それによっても島津氏方の侵攻は止まず、幕府特使・伊勢貞孝、永禄六年には伊勢貞連らが下向し島津方と談合を行った記録が残されている。
島津氏にとって飫肥の問題は、伊東氏との関係以上に幕府との関係において頭痛の種であったことは間違いなさそうである。

②「戦国大名島津氏と地頭」(福島金治氏)。③「島津貴久から義久への書状」が残されておりその書中、「永禄3(1560)年 将軍足利義輝は、島津貴久に書を送り、二十年来島津氏と伊東氏が争った飫肥について幕府の直轄地とし、そのうち伊東分は伊東義祐へ帰属する」旨採決した。<黎明館受託史料>
引用:島津貴久書状

 このように、伊東氏は南九州において言わば室町幕府を支える親衛隊・執行者(代官)の地位を与えられ、朝廷・幕府への奉公に努めたのであった。伊東氏の歴史書「日向記」には、それを裏付ける記録として伊東氏とその要人の上洛や幕府要人の日向往来が頻繁であったことを窺い知ることが出来るが、同時に台所の苦しい幕府・朝廷に対して物資・財政両面での支援・奉公も活発に行ったと推察される。そして、寛正2年3月(1461)には後花園天皇に御所奉公して功あり、
将軍義政より当時の国主「伊東祐尭(すけたか)」に日向・薩摩・大隅三州の将帥に任ずる旨の文書が発給され、また、文明18年(1486)伊東祐良は将軍足利義尹の偏諱を受けて「伊東尹祐」に改名。天文6年(1537)には伊東祐清が将軍足利義晴に偏諱を受けて「伊東義祐」を名乗った。やがて日向・大隅・薩摩にわたり伊東氏48城を擁し「大膳大夫」(天文10年)、「幕府一代御相伴衆」(天文17年)、永禄4年(1561)には、地方の戦国大名としては破格の「従三位」の官位を受けるなど幕府による叙勲が続き、戦国大名「伊東義祐」は、その圧倒的な勢力伸張を背景に「日薩隅三州太守・藤原義祐朝臣」をも自称したのであった。

 これに対して、島津氏は、応永3年(1352)島津資久が宮崎地頭、その後島津氏久が日向本郷地頭、資久が日向臼杵院地頭となるなど島津氏の日向国進出が続き、応永3年(1396)には島津元久が山東に出兵して伊東氏・島津氏両者の抗争が激化した。そして応永11年(1404)島津元久が日向・大隅・薩摩の守護に任ぜられる。しかし、島津氏は伊東氏の立場とは異なりもともと室町幕府の成立時から新政府との間に距離感があり親密な関係には無かった。それは、島津氏が旧鎌倉幕府(北条執権)体制で得た大きな権益を引続き追求する立場であったのと、元来島津荘が摂関家の所有する荘園(島津院)であった経緯によって、困難な時代の節々において近衛家の強い支援が得られる立場にあったからである。そのこともあってか島津氏の場合、天文21年(1552)伊東氏におくれて島津貴久が従五位下修理大夫に任ぜられたが、その後も伊東氏の場合のような幕府による高位の叙勲は見られなかった。
すなわち、伊東氏は源氏嫡流の室町幕府によって強く支援され、一方島津氏には近衛家の強い後盾があったことが鮮明である。

 
こうして、伊東氏と島津氏はいよいよ本格的な合戦を繰り広げてきたのであったが、激しい合戦の時間と和平の比較的穏やかな時節を織り交ぜながら、元亀3年(1572)の「木崎原合戦」における伊東氏の突然の敗戦とこれに引続く「伊東崩れ」によって、遂に天正5年(1577)12月伊東義祐が島津義久に敗北。豊後大友氏のもとに亡命して日向国を失うまで約220年間続いた。更に、天正15年(1587)豊臣秀吉の支援を求め寄宿し、豊臣家臣・武将となっていた義祐三男伊東祐兵が、九州征伐戦において25万人からなる秀吉遠征軍を先導して島津氏と戦い勝利して奇跡的に日向帰還を実現したが、その勲功著しく、秀吉によって伊東家再興と飫肥城奪還を実現するまでの10年間を加えると実に約230年間にも及んだのであった。


日向国・戦国時代

 その伊東氏・島津氏両氏の戦史を
「中世日向国関係年表・聚史苑」(藤牧祐生氏)によって通覧すると、両者は激烈な南九州の戦国時代を合戦に明け暮れて勝ち残った武勇に優れ、極めて強靭な軍団であった。とは言え、意味も無く好き好んでこれほど長期間にわたって激しい合戦を繰返してきたのではなかったことは以上の経緯からも明かである。
 先ず、①必然的に対立から激突に至る政治的構造および地政学的な特殊な難しい環境が存在していた。すなわち、単に南九州の大名と大名との抗争・合戦ということにとどまらず、その実態は、奈良・平安時代の昔から皇室の武者所など近習職の家柄であった歴史的背景を有し、且つ室町幕府の代行者となった<藤原南家>日向伊東氏に対し、元来島津氏の領家であった<藤原北家>近衛家(摂関家)の支援を背景にして旧幕府(北条執権)から引続く既得権拡大路線を追求した薩摩島津氏とによる朝廷・幕府を巻き込んだ抗争・激突であった。すなわち、伊東氏と島津氏の激しい抗争の底流には、「藤原氏」を巡る朝廷・幕府を挟んだ奈良・平安時代からの特殊な事情が横たわっていたことは明らかである。
 しかし、②それでもなお、これほどまでの特異な歴史的な抗争に発展していった真の原因は何処にあったのか、という疑問を禁じえないのである。
 そこには、薩摩と日向の両国は、京・鎌倉からは遠隔地ではあってもわが国最大規模の荘園が存在し常に豊かな収穫が期待され、また、中国・明、東アジアとの海外交易・密貿易も盛んでヨーロッパ等からの武器をはじめとする当時の様々なハイテク商品と技術がもたらされたことがあった。
 特に、飫肥の経済的魅力と重要性の中心には、「吾平津姫」の名に由来するといわれる良港「油津」があった。油津港は、古くは朝鮮半島から中国沿岸部、東南アジア一帯において海賊あるいは密貿易勢力であった倭寇の活躍した港とされ、またその倭寇の取締りのため、室町幕府がはじめた「勘合貿易」の中継基地でもあったのである。従って、日向中でも飫肥一帯のことは、皇室・朝廷や幕府にとっても経済と軍事戦略両面でトップレベルといえる資産価値の極めて高い領国であったからに他ならない。
 こうした事情は、島津氏(老中)が日向国の占領を確実にした天正7年(1579)3月7日、伊東氏が滅び島津氏自身が新しい統治者となった日向戦役の政変の結果を、それまで日向伊東氏と交易で友好関係にあった琉球国(後に島津氏琉球侵攻)に向かって手早く伝達した一事によっても頷けるのである。
 勿論、③日向国は島津氏が進出し割拠した幾つかの飛地が存在し、飫肥や飯野方面など両者の境界地域に多くの紛争地域が多かったので合戦が絶えなかったこと。さらには、④日向伊東氏は、その両脇を守護大名の島津氏とキリシタン大名大友氏に挟まれていたので、両守護大名との同盟関係の三角関係とその変化が紛争の激化を助長したことは否めない。


 そして、歴史はしばしば改変されたり装飾される。想像を加え日向伊東氏と室町幕府とのこの緊密な相互関係を敷衍すれば、義祐息の当主義益が参篭中急死という異変、元亀3年(1572)の「木崎原合戦」における伊東氏の奇異とも言える敗戦に続く天正5年(1577)の「伊東崩れ」と言われる没落は、通説とは異なり、天正元年(1573)織田信長が将軍足利義昭を追い「室町幕府の滅亡という天下大乱およびそれに至る幕府の衰退」という中央の政治環境の激変が大きな引き金になったのかも知れない。
 島津氏は、この機に先行して、摂関家からもたらされたと思われるホットな京の高度な政局情報を活用して伊東氏の体制内に大きな動揺と分裂を仕掛ける情報戦略と軍事戦略を展開し、これに対して伊東氏側にも島津氏との早期の決戦を駆り立てる焦燥感が増大して行ったと思われる。

 すなわち伊東氏の衰退には、伊東氏と島津氏間の地域的なミクロな要因も大きかったにしろ、室町幕府の崩壊と信長政権の誕生という地殻変動---マクロの体制変化が大きく作用したと考えられるのである。
 源頼朝によって成立した源氏の鎌倉幕府は、建久4年(1193)5月工藤祐経の暗殺に始まる頼朝御家人の連続的殺害事件の後、ついに正治1年(1199)将軍頼朝の落馬とされる変死によって事実上終焉し、頼朝の鎌倉幕府の成果は、北条時政に始まる北条一族の執権政治の手中に収まった。その結果鎌倉幕府はあたかも平家政権の如く変質し隆盛したが、やがてその北条政権の衰退を機に再び源氏の足利尊氏(清和源氏河内流・下野国)がこれを打倒し成立した室町幕府であった。一方日向伊東氏は、その足利政権と皇室約240年間も支えてきた。しかしその室町幕府も遂に寿命が尽きて滅びてしまったのである。
 中央政局において、信長の出現に続く秀吉の登場によって、全国統一に向かう時代変化の大津波が遠隔地の南九州にも激しく押寄せ
その結果、日向伊東氏は室町幕府という最大の拠り所・支援者を失った

 従って幕府料国で且つ幕府成立以来の小番家御家人であり、また歴史的に至って誠実な護国の奉公衆に見える日向伊東氏の謎に満ちた衰退は、そこに強敵島津氏の戦略・戦
術の強い作用と激しい調略・侵攻があったにしろ、基本的には当主義益の急死に続く木崎原合戦の敗戦を契機として、天正元年(1573)の室町幕府の崩壊から5年後の天正5年(1577)に至り、
運命共同体的な必然性をもって内部から崩壊に至ったと見るのが納得性があるように思われる。

 また、この間の義祐の日向伊東氏の政治は、舅福永氏の専横に端を発した根深い内紛の火種を抱え、数代にわたる隣国「島津氏との姻戚関係」の深い好を離れて和解の道からは遠ざかり、豊後のキリシタン大名大友氏との同盟関係の強化に傾斜するなど内政の驕り・乱れも目立ち波瀾含みとなった。
 日向に上り詰めた太陽は、「満月は欠ける」の譬えの通りやがてスキを生じることとなった。還暦を迎え一旦隠居し仏道三昧に耽っていたと言われる入道義祐は、人物に優れ将来を嘱望されていた嫡子・伊東義益が急死するという突然の異変に遭遇し、絶望に襲われ愁傷狼狽した。

 そして、その傷心冷め遣らぬ元亀3年(1572)5月4日、袈裟衣から現役復帰して臨んだ運命の「木崎原合戦」。自ら選抜した若手の意気盛んな大将連率いる伊東軍が、緒戦に大勝したことで慢心し無秩序に川で水浴びするなどして休息中のところを、義弘率いる島津軍に反転急襲され思いがけない大敗を奏した。
 一方、伊東義祐と島津家当主の島津貴久は、年齢が同じで何かと共通性もあり、両者は、国主としてまた武将としても永年歴史的な好敵手(ライバル)であった。 ところが、その先年、貴久は総力を傾けた「飫肥城攻防戦」において強力な伊東軍の猛攻に耐えられず大敗し、遂に飫肥一帯と飫肥城を義祐に明け渡し深刻な事態になった。しかも、その飫肥大敗のショックもあってか貴久はその直後逝去してしまったのである。
 
 このため、危機到来に至った島津氏は、貴久から新しい当主島津義久(嫡男)に政権交代していた。そして、伊東氏と肝属氏、根占氏、相良氏などの同盟国の隆盛と脅威の増大に対抗するために、日向方面においては、義久弟・島津義弘を中心に白狐神変の情報・心理戦略、待ち伏せ側面攻撃の奇襲戦法、隠しハイテクの種子島等文武両面で構造改革を果たし戦略的攻勢に転じていたのであった。
 また、義弘は、軍事作戦面においても、鉄砲情報のルートによって約8年前の永禄3年5月19日(1560)、織田信長によって起きた「桶狭間の合戦」の大異変とその信長戦略を十分承知していたと考えられる。こうして、後年、義弘は「飫肥城攻防戦の弔い合戦」であり、また第二の桶狭間とも言われる「木崎原合戦の奇襲作戦」によって、父貴久の宿敵であり日向の雄・老将(入道)義祐の伊東軍を大敗に導き、父貴久の無念・仇を晴らすことに成功したのであった。

 この戦いで、伊東氏は日向の将来を背負って立つ幾多の若き大将・武将を失いその衝撃は大きかった。いわゆる「伊東崩れ」が発生し、以後の島津氏の侵攻に対して決戦に及ぶも到底戦局の立て直しは成らず敗北して一族家臣の多くが降伏。南九州の覇者として上り詰めた入道義祐は、木崎原合戦の敗戦から5年後、天正5年(1577)12月縁戚で同盟関係の大友氏を頼って豊後に亡命し、遂に鎌倉以来伸張を続けた強国日向国を失う悲運に見舞われたのである。



6 没落と再興 安土桃山・豊臣時代

 伊東家がお家再興を果たしたのは、天孫降臨の神々の聖地であり先祖の地でもある日向国を失って、人々が日向伊東家を忘れかけた頃であった。
 薩摩の厳しい追っ手を避けて、日向都於郡本城~佐土原城~高千穂山中~豊後臼杵~伊予国道後~播州姫路~大阪と退避に成功した義祐・祐兵親子は、日向伊東家の一族ですでに秀吉の家臣であった伊東掃部助と遭遇。祐兵はやがてこの人の強い推挙により、近畿・中国・四国一円を従者一人と仏道行脚に明け暮れる老境70才の、先の日向国主・父伊東入道義祐とは分れて、昼夜片時も忘れないお家再興の一念から、遂に、大阪で秀吉に支援を求めて仕官、豊臣の武将となった。

 日向の国を失い秀吉家臣となった祐兵は、高松城攻め、明智光秀との山崎の合戦、尾張・美濃の攻略、小牧の陣、紀州根来攻め、四国征伐と天正10年(24才)から天正14年(28才)まで常に秀吉に随従しそのたび毎に手柄・軍功を重ねて、天正5年12月に日向・都於郡城を離れてから苦節10年。遂に、時節到来となった翌天正15年には、祐兵に遅れて大友宗麟などほかの九州の諸大名の要請も次々に届き、関白秀吉の島津氏征伐の九州遠征軍将兵20数万人の台風が巻き起こり、その案内役・先遣隊命ぜられて目覚しい戦果を挙げた。祐兵は、秀吉の覚えもよく、その恩賞として日向国全土の返還はならなかったが、「飫肥藩」の成立と「日向伊東家」の再興を勝ち取ってまさに武士の本懐を遂げた。
 祐兵の日向出奔~秀吉家臣~九州征伐~飫肥藩樹立という、悲惨と屈辱の中から立ちあがった10年間のお家再興のその軌跡は、当時、義弘率いる最強軍団となっていた島津氏がその相手であっただけにまさに奇跡的であった。
 戦国の世に、伊東祐兵と島津義弘という名将二人の間で繰り広げられた日向国の奪還戦における祐兵の剛勇と偉業は、敵将義弘をして武家の鑑として感嘆させるものであった。

 そして、秀吉の二度にわたる朝鮮の役においては、関白秀吉の厳しい命により諸将として揃って出陣し、秀吉の死による突然の撤退に至るまで歴史に語り継がれる戦果を挙げつつも生死を賭けた苦難を重ねた両者は、後に江戸時代宝永4年(1707)江戸において、第五代藩主伊東祐実の飫肥藩と薩摩藩の深い親誼の約束を交わしたのであった。
 しかも、祐兵に起こったこの奇跡の進行に続いて飫肥藩のその後の立ち上げの裏側には、日本の歴史を飾るもう一つの不思議で運命的なドラマがあった。それは、ローマ法王遣欧の少年使節正使として往復8年(天正10年13才~天正18年21才)のヨーロッパ旅行から帰還し、関白秀吉に甚だ好を通じ、秀吉からの希望によって京・聚楽第において数度にわたり接見した祐兵の甥伊東マンショの隠された大きな力・祈願が働いていたと言われ、いまその知られざる歴史が明かされようとしているという。

 豊臣秀吉の朝鮮征伐は、慶長3年(1598)8月秀吉の死によって終焉し、さすがの豪勢な権力者も、無常の風塵のもとでは「桐一葉落ちて天下の秋を知る」こととなった。天下の新しい地殻変動は、秀吉の死を待っていたかのように、慶長5年(1600)豊臣方・徳川方双方に分れての天下分け目の「関が原の合戦」となった。


飫肥藩・徳川時代

 
祐兵は、秀吉家臣となって幾多の戦陣を戦い遂に日向の大名に返り咲いたとはいえ、父従三位伊東義祐が、日向国のほぼ全域を領有していたのみならず大隅・薩摩にも広く支配力を誇示した際立った戦国大名であった時期に比べて、日向の一部「飫肥藩」を領有しているに過ぎなかった。このため、秀吉恩顧の大名として苦しい選択を迫られたが、時あたかも祐兵が重病に罹り床に臥していたため、かねてから入魂の黒田官兵衛(黒田如水・黒田孝高)と意を通じて天下の形勢を諮り、その上で諸侯の信望の集まった徳川家康に味方をした。関が原の戦中は大阪で病床にあった祐兵とは別に、飫肥藩伊東氏は、それまで西軍に属していた日向の佐土原城、高鍋城、延岡城等を攻めて関が原の合戦以後の徳川方に備えたが、これら三つの城主はその後徳川方に寝返ったためこの作戦は徒労に終わり、かえって後に徳川方に大きな疑念を抱かせた。しかし、ここは関が原の合戦後まもなく死去した祐兵と祐兵の腹心「稲津掃部助の反乱・制裁」事件をへて収束し、家康は日向飫肥藩・伊東家を安堵し、徳川時代を経て明治維新を迎え、明治二年第14代藩主伊東祐帰(すけより・初代宮崎県知事)まで続いた。

 このような伊東氏の歴史の概要は、徳川幕府の編纂になる「寛政重修諸家譜」およびその当時差し出された元史料と思われる伊東氏系譜(南家・伊東氏藤原姓大系図)等に見られ、また、「日向記」(最新版:宮崎県史叢書3.500円 平成11年発行)となってわが国の最も古い家伝の一つとして知られて久しい。
 その南家・藤原姓伊東氏1400年の軌跡を要約する時、激動の日本史の真っ只中、古より皇室の安らぎとわが国の安寧を図る使命を保ち、「祈り」と「守護」の家としてさまざまな歴史的な事件に関与し、まさに「勇士の家」「武将の家門」の歴史であった。


工藤・伊東氏のゆくえ 明治維新~近・現代

 
遠くは、平安の昔、将門の乱における武将の初めとなった「藤原(工藤)為憲」に始まり、源平の合戦の副将の一で鎌倉幕府開府の頼朝重臣「工藤祐経」のその三女(伊東祐時妹)は、伊予国「河野通久室」となってその一滴から、幕末・明治維新に至って尊王攘夷の長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学んだ、初代日本国内閣総理大臣「伊藤博文」を生み出した。

 またその近くは、明治の日清戦争時の「黄海海戦」において、連合艦隊司令長官として全勝で飾り、引き続く日露戦争においては、海軍幕僚長(軍令部長・大将)に信任されて大本営に参じ、明治聖帝のお側にあって、前線配下の東郷司令長官(中将)に戦略・作戦計画を提示してわが国連合艦隊の総指揮に当たり、名将両者が談合・呼応して当時世界に無敵と恐れられたロシアのバルチック艦隊を打ち破り、世界の国々を驚愕あるいは称賛させ、その功績により、初代海軍元帥・従一位・大勲位となった「伊東祐亨(ゆうこう)」(鎌足第43世)まで。

 祐亨は、祐時子孫・鎌足第28世の日向国主祐尭の曾孫に当たり、「木崎原合戦」で憤死した日向伊東軍大将・伊東加賀守の後継となった弟伊東祐審(祐明)次男(金法子)の子孫であった。 入道義祐・祐兵親子一行が豊後に亡命の時、義祐と別れて散じ、戦後日向に残った一族は伊東家存続のため多くの家臣団と共に島津家臣となった。そして後には伊東・島津の歴史的姻戚関係と武将の家門の好とを以って、日置、大口、加治木、中郷、東郷等を拠点にして鹿児島本城に出仕し、義久・義弘・歳久・家久等に仕え、島津家臣としてすこぶる知遇を得た。
 祐亨に至っては、天資聡明の名君と知られた時の藩主・島津斉彬の引き立てによって勝海舟の塾生として海軍操練所に学び、その資質によって頭角を顕わし海軍の創設の逸材・一大海将・皇国海軍の長老(おさ)となったのであった。
 なお、元帥祐亨の名声が、東郷元帥に比較して世間に知られなかったのは、大正はじめの当時、軍需品を購入していたドイツのシーメンス社と海軍の担当部署との間で国際的な収賄事件いわゆる「シーメンス事件」が発生した影響が大きかった。

 当事件は、軍と業界に多くの逮捕者を出し、陸軍系の同志会と海軍系の政友会の一大政治抗争に発展し、海軍大臣から首相になった山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。海軍に対する陸軍と世間・マスコミの批判・圧力の中で山本首相に最も近かった祐亨は、武人の慎みとして生来政治的野心や名声を好まなかったこともあり、第一次世界大戦が勃発して喧騒が高まった下では、日清戦争に勝利しても伝記などを出版する環境には無かったという。

 この事件を機に、議会によって海軍の予算が著しく抑制されたのに対し陸軍は強大化され、やがてその激情は、屈辱の第二次世界大戦の敗戦に至る不幸な中国強硬路線へと突き進むことになった。
 日露戦争においては、同じ薩摩の出身で入魂であった東郷中将を連合艦隊司令長官に推挙・選任し、大本営の幕僚長(軍令部長)として、武人の最高位にあって戦略的な意思決定を行い、連合艦隊の総指揮に当たった豪勇の人祐亨は、専ら、海上で戦った東郷司令官はじめ輝ける部下将兵の偉業を称えて止まなかったという。そして祐亨は、日露戦争の勝利に酔いしれる世間と多くの戦争指導者たちの中で、武人として国に勝利をもたらすのは当然の任務と一切の政治的野心や名利に近づかなかったという。(小笠原長生編著「元帥伊東祐亨」:昭和17年南方出版社)

 このように、この武将の家門の勇姿には、際立った剛毅さと純乎な熱情とを示し、歴史に数々のドラマチックな話題を残した藤原為憲流(工藤流)の系譜。 ・・・・その伊東(伊藤)一族の足跡を辿りながら、先祖再発見とその歩みに隠された数々の謎に迫る。
 また、この家の歴史は皇室を中心に源家・平家など幕府の狭間を往来 しながら日本の歩みと共にあり、それぞれの時代に人を得て波乱万丈・華やかであり、また人の世の因縁と愛憎を秘めて哀しみを誘い、日本人の魂を激しく揺さぶる。



 2003.10.20
 2005.10.16(室町期の追補)
 2005.11.18(室町期の追補の一部訂正)



 引例・参考文献
  ①中世日向国関係年表(藤牧祐生 「聚史苑」)
  ②戦国大名島津氏と地頭(福島金治 昭和54年10月3日
  ③島津貴久の義久への書状(黎明館受託資料
    http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/kgs02_s3_2.htm

 
④小番衆---「室町幕府の奉公衆」(福田豊彦 日本歴史代74号)
           
「室町幕府奉公衆筑前麻生氏について」(川添昭二 九州史学57号)
  ⑤文明論之概略巻之六 第十章(上田修一 全文テキスト http://www.slis.keio.ac.jp/~ueda/)



            <参考>伊東家の女性物語


伊東家の歴史館
http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/
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