伊東氏大系図と卑弥呼の世界



 □筆者は、鹿児島県の出身で小学生から中学生の頃は、しばしば、明治生まれの父親に連れられて、神武天皇の父 「鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト)」を祀る大隅の「吾平山稜」や日向の「鵜戸神宮」にお参りしていた。
 父は、「日本最初の天皇神武のお父さんが住んでおられた所で、そのお墓だ」と話してくれた。しかし、日本の西南端のこのような田舎がそうだ、と言われても子供ながら何処か怪訝な気持ちもあったように思う。しかし、不思議なことにその後大阪の在住と勤務を経て、縁あって大和国・奈良に住んでいる。大和は、神武天皇が、日向・大隅の地から長い時間をかけ戦いを続けながら東征し、橿原の地に皇居を造営して倭の国の古都を開いた聖地。奈良県桜井市の「箸墓」は、ここからは比較的近い所にある。そして、私は、近年の自分の関心と史料検索により、「南家 伊東氏藤原姓大系図」に記載された古代先祖と邪馬台国・女王卑弥呼の政権との間に、具体的な関係が存在することが判明し大いに興味が昂じてきた。
 そこで、ネットに投稿された歴史研究者の方々成果の恩恵を被って、素人なりに「古代史再発見」を思い立ち、少しばかりその追跡の旅に出た。

吾平山稜




「卑弥呼の宮殿」の可能性

奈良・纒向遺跡に大型宮殿跡発見

 古代日本の倭国。その中心「邪馬台国」は後の「大和国に重なる。その有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半に存在した国内最大規模の大型建物など2棟の宮殿跡が発掘された。桜井市市教委が11月10日発表。時代検証においても、「邪馬台国の女王卑弥呼」が活躍した時代(2世紀末~3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には、「卑弥呼の宮室(宮殿)には、楼観や城柵(じょうさく)が厳かに設けられていた」と記されている。「卑弥呼の居館」の可能性が高まり、「邪馬台国畿内説」を更に補強する第一級の史料になるという。
(産経新聞2009/11/10引用 )

そして、この近くには、有名な「日本最古の大型前方後円墳」である箸墓古墳があり、卑弥呼の墓の最有力候補と言われる。一帯は国内で最も古い有名な古墳群があるが、この箸墓は、古墳の多い奈良県においても屈指の大きさと言われている。
 史料によると、古墳の規模は長さ約280m、後円部の径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段。


箸墓古墳と「魏志倭人伝」

○箸墓の完成時期
 卑弥呼の死は247年頃と伝えられ、箸墓古墳が造成されたのは出土した土器の形式から260年頃と推定されている。卑弥呼死亡後、工事期間10余年には完成したとすると時期的にも一致するという。

○宮内庁の記録
 宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、「倭迹迹日百襲姫命」(ヤマトトトヒモモソヒメ ノミコト)としている。
箸墓古墳の体積は30万立方メートルで、建設に動員されたのは述べ135万人。天皇以外で一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは、「卑弥呼以外にありえない」との見方がある。

○『日本書紀』の記述
 『日本書紀』は、この墓は、「昼は人が造り、夜は神が造った」と記述しており、また、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで人々は絶えることなく続いた」と、築造の時の情景まを記している。古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が、墳丘の斜面から見つかっており、これを人々がリレーして運んだ様子伝わる。そして、「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされ、この墓が古くから特別視されていたという。
また、『日本書紀』では、祟神天皇が「巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて」政事を行なっているが、「邪馬台国」でも「卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている」点で共通している。

 付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており、邪馬台国がここにあったか、もしくは、当初「北九州にあった邪馬台国」の本拠地が卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られている。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が、初期大和政権の首都であったことを裏付けるという。

 古墳時代の幕開けと言われる「前方後円墳として様式が完成された時期」の第1号の古墳。以後の大規模前方後円墳のモデル。初期古墳群の全長は平均約100m。しかし、箸墓は実に300mに迫るケタ違いの巨大さ。また、埴輪の原型となる「吉備系土器」が出土したり、「古墳の周囲を堀で囲む」など従来の墳墓とは完全に一線を画しているという。

 「卑弥呼の墓は、直径が百余歩、奴婢(奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。百余歩は約150m前後。箸墓古墳の後円部の径は約150mで一致しているという。

○魏志倭人伝「卑弥呼の遣使」
 「魏志倭人伝」には、
西暦238年、魏(中国)への朝貢のため、女王卑弥呼の第一次遣使として倭人の「大夫難升米」と、その次席の遣使「都市牛利」が派遣されました。
 
後の唐の時代(西暦630)に派遣された第一回遣唐使」は広く知られているが、その遣唐使よりも遥か約400年以前に、倭国の邪馬台国から中国(魏)に遣使が派遣されていたことは、教科書で習っても遣唐使ほどは良く知られていない。 また遣魏使の彼らの帰還とともに,帯方郡(魏)から魏使として 「建中校尉(けんちゅうこうい)」「 梯儁(ていしゅん) 」が同行して来倭。その使命は、魏皇帝から女王卑弥呼へ「親魏倭王」の金印,紫綬などを授与するためであった。




箸墓古墳

(出典) 国土画像情報(カラー空中写真)
        整理番号:CKK-79-3、地区名:奈良