○箸墓の完成時期
卑弥呼の死は247年頃と伝えられ、箸墓古墳が造成されたのは出土した土器の形式から260年頃と推定されている。卑弥呼死亡後、工事期間10余年には完成したとすると時期的にも一致するという。
○宮内庁の記録
宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、「倭迹迹日百襲姫命」(ヤマトトトヒモモソヒメ
ノミコト)としている。
箸墓古墳の体積は30万立方メートルで、建設に動員されたのは述べ135万人。天皇以外で一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは、「卑弥呼以外にありえない」との見方がある。
○『日本書紀』の記述
『日本書紀』は、この墓は、「昼は人が造り、夜は神が造った」と記述しており、また、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで人々は絶えることなく続いた」と、築造の時の情景まを記している。古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が、墳丘の斜面から見つかっており、これを人々がリレーして運んだ様子伝わる。そして、「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされ、この墓が古くから特別視されていたという。
また、『日本書紀』では、祟神天皇が「巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて」政事を行なっているが、「邪馬台国」でも「卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている」点で共通している。
付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており、邪馬台国がここにあったか、もしくは、当初「北九州にあった邪馬台国」の本拠地が卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られている。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が、初期大和政権の首都であったことを裏付けるという。
古墳時代の幕開けと言われる「前方後円墳として様式が完成された時期」の第1号の古墳。以後の大規模前方後円墳のモデル。初期古墳群の全長は平均約100m。しかし、箸墓は実に300mに迫るケタ違いの巨大さ。また、埴輪の原型となる「吉備系土器」が出土したり、「古墳の周囲を堀で囲む」など従来の墳墓とは完全に一線を画しているという。
「卑弥呼の墓は、直径が百余歩、奴婢(奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。百余歩は約150m前後。箸墓古墳の後円部の径は約150mで一致しているという。
○魏志倭人伝「卑弥呼の遣使」
「魏志倭人伝」には、西暦238年、魏(中国)への朝貢のため、女王卑弥呼の第一次遣使として倭人の「大夫難升米」と、その次席の遣使「都市牛利」が派遣されました。
後の唐の時代(西暦630)に派遣された第一回遣唐使」は広く知られているが、その遣唐使よりも遥か約400年以前に、倭国の邪馬台国から中国(魏)に遣使が派遣されていたことは、教科書で習っても遣唐使ほどは良く知られていない。 また遣魏使の彼らの帰還とともに,帯方郡(魏)から魏使として 「建中校尉(けんちゅうこうい)」「
梯儁(ていしゅん) 」が同行して来倭。その使命は、魏皇帝から女王卑弥呼へ「親魏倭王」の金印,紫綬などを授与するためであった。
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