<探検:解釈日向戦国史 履修 2008.09.01>


「飫肥の合戦」の衝撃と日本史のゆらぎ

  
 戦国時代「飫肥城の戦い」については、多くの史料や書き物が見られるが、甚だ特殊なこの合戦の背景や原因、特に日本史に与えた影響や意義について考察した記録については比較的少ないように思われる。そこで、限られたいくつかの手元の史料や公開資料を用いて改めて<飫肥城の攻防戦>を概観し学習してみた。そして、この合戦が、伊東氏・島津氏の双方に与えた衝撃、および日本史に与えた影響等について少し考察をして、筆者の戦国史の素養とし、あわせて人生観の参考にしたいと考えたものである。


<戦国の戦い>

 戦国時代には、全国各地において群雄割拠し苛烈なる生き残りの決戦、戦国の戦いが展開された。そして、その地獄絵の戦場と壮絶な攻防の中から、時代を画する多くの武将や輝ける大名が出現して後世の歴史を飾り、また華やかな戦国物語や英雄伝説を生み出してきた。
中でも、武田信玄・上杉謙信による「川中島の合戦」、織田信長が今川義元を奇襲した「桶狭間の戦い」、徳川家康の「関ヶ原の合戦」などは特に広く知られている。


<日向の龍 義祐父子・薩摩の虎 貴久父子>

 ところが、日向・薩摩・大隅合わせて「日薩隅三洲」といわれる南九州においても、日本の戦国史に留まらず日本の歴史に大きな影響を与えた「異彩を放つ戦国の戦い」があったことは、あまり知られていない。それは、日向の龍と畏敬されて勢力の伸張を誇った伊東義祐、その子義益・祐兵の父子と、薩摩に「西海の虎」と謳われた名将・島津貴久、その子義久・義弘・歳久・家久の父子とが激しく対峙して繰り広げた「飫肥城攻防の合戦」である。

 島津貴久の父忠良は、「島津氏中興の祖」を言われ「日新斎」とも称した人物で、特に、島津氏における文武両道について、思想・宗教(修験道を含む)の面から子や孫、ひいては家中の啓発・指導に大きな実績を残し人材育成に努めたという。
日新斎の「人心経営思想」である「いろは歌」は有名である。この日新斎の卓越した薫陶の中から、子の貴久、孫の義久・義弘・歳久・家久という優れた武将・人材が育っていった。

 他方、伊東氏は、平安時代から「藤原氏の武家の統領」の家門として日本史上に知られ、鎌倉時代に、源頼朝の側近筆頭で重臣であった工藤祐経とその嫡子伊東祐時が日向国地頭職に任ぜられ、引続く室町時代には、幕府直臣・小番衆としてとして、将軍足利義満から伊東祐尭(義祐祖父)が、内紛が激しく不安定な薩摩の島津氏に代わって日向・薩摩・大隅の「三国総帥」として守護職に任ぜられた。その後、この地における伊東・島津両陣営の主導権争い、国取り合戦はいよいよ激化した。

 そして、遂に文明16年(1484)に至り当主伊東祐国(義祐の祖父)が、弟の祐邑と共に日向の35の諸城の外城衆を引き連れて飫肥地方へ出兵。島津豊州家忠広(忠親父。始祖は島津宗家8代当主島津久豊の三男季久)が支配していた飫肥において伊東・島津両軍が合戦を行い、その年の12月に、軍兵300で来援していた平和泉領主の島津豊久は戦死した。


<飫肥城100年合戦とその影響>

 先代からの因縁を引継いで、伊東義祐によって再び本格的に始められた飫肥城の攻防戦は、天文10年(1541)10月10日に初戦が始まり、三度にわたる合戦を経て、やがて、永禄11年(1568)1月9日、伊東軍は20000の軍兵を動員し飫肥地方を攻め、4度目の激しい攻防戦が展開された。
 島津当主貴久と伊東当主義祐両雄の最終戦となったこの飫肥城の合戦は、遂に伊東義祐が圧倒的な勝利を収め終了した。ところが、その数年後、義祐は「木崎原の合戦」で大敗、その5年後の「伊東崩れ」によって、島津貴久の後継・嫡男義久の大軍による日向侵攻を受けて「豊後落ち」に追われ日向国を失った。

 しかし、「豊後落ち」、大友宗麟の「高城の合戦」を経て四国の伊予国に退避して数年後、天正10年(1582)1月、時節到来の天下の情勢を測っていた義祐と祐兵父子は、密偵の山伏三峯の情報に基づいて中央政権で抜群の頭角を現した「羽柴秀吉」に面会するために播磨に向かった。そこで、本能寺で織田信長を暗殺した明智光秀を瞬く間に討伐してその後継となり、まもなく、京・大阪を拠点として天下人となる「羽柴秀吉」に遭遇し、島津氏から占領された日向国の奪還について強く請願した。 そして、その義祐・祐兵父子と秀吉との運命的な出会いから6年後の天正16年(1588)に至って、伊東祐兵は、秀吉から、島津征伐の「九州征伐戦」陣立ての好機において、その遠征軍25万の水先案内人を命ぜられて参軍し故郷日向に帰還した。そして、「秀吉の天下統一」につながる歴史的な軍功を以って太閤秀吉から飫肥を含む相当の日向旧領が恩給され、「飫肥藩」が誕生し、夢に見た奇跡的なお家再興を実現した。

 「飫肥城攻防戦」は、伊東氏と島津氏とが、この間約100年の長期にわたって相譲れない執拗な攻防を繰り返した、甚だ特異な戦国の戦い・国盗り合戦であった。
また、この合戦は、結果的に伊東氏と島津氏との栄枯盛衰を左右しただけでなく、その衝撃は 、わが国の戦国社会に大きなゆらぎとなって波紋を広げ、歴史的に大きな影響を与えた。すなわち、その一連の歴史は、
   

 義祐が28年間にわたる「飫肥城の合戦」に勝利し、戦国伊東氏の最大勢力圏の樹立。


 義祐、還暦の絶頂期を上り詰めて、「木崎原合戦」の大敗。家中の反乱「伊東崩れ」、島津義久軍の侵攻による義祐父子の「豊後落ち」没落

 「日薩隅三洲」の軍兵を糾合し、強大化した勝者・島津(連合)軍の誕生と九州各地への北上、九州制覇、(伊東軍と島津軍の合体)


 島津氏征伐のため、太閤秀吉率いる九州征伐遠征軍25万が、日向・薩摩へ来襲し島津氏は大敗、全面降伏。(史上最大の遠征軍)



 伊東家のお家再興と「飫肥藩」誕生、および秀吉による薩摩・日向を含む九州の国割り、国替え(再編成)。


 これで、太閤秀吉の「天下統一事業」は
西国が平定され飛躍し、東国の平定を目指し関東の北条氏、奥州の伊達氏の征伐へと展開した。
太閤秀吉による敗者・島津義久、義弘、家久、歳久への過酷な制裁

 室町幕府が進めた中国・明との勘合貿易が16世紀中期に中断されて以来、薩摩や日向の各港は、「倭寇」と言われる私貿易(密貿易)の重要な拠点港であり、中継基地であった。
 
戦国島津氏の強大化による大規模な軍事行動や九州制覇の経済的基盤は、この「倭寇」貿易であった。薩摩から奄美、沖縄、中国南部、東南アジア (南蛮)、そして朝鮮を結ぶ西南のネットワークがあり、また、他方に、長崎、佐賀、薩摩につながるキリシタンバテレンとの交易の発達という利権の北西のネットワークが存在した。島津氏は九州制覇によって、九州全域でのその権益確保を目ざしたが、秀吉は九州征伐によって島津氏のこの野望を打砕き、この将来性に富む巨大な権益を島津氏から没収した。

 また、日向の飫肥城に近い油津港は、室町時代からこの倭寇や勘合貿易の魅力的で重要な中継基地であった。
従って、伊東氏と島津氏との間で展開された「飫肥城100年戦争」の根源には、実は、倭寇や勘合貿易など貿易において活躍した飫肥の名港「油津港」の権益が存在し、加えて、島津氏の背後は、京の近衛家(摂関家)がこれを支え、伊東氏の背後には、室町幕府の足利将軍家が存在して支えていたことは余り知られていない。


 豊臣秀吉は、島津氏を初め九州諸国が有していた明国や朝鮮、アジア諸国との海外貿易の利権を獲得した上で、いよいよかねてから密かに狙っていた中国大陸・明国、朝鮮等への進出に乗り出した。
 秀吉は、文禄の「朝鮮の役」を発動し、島津義久・義弘に対し、過酷な軍役の負担を命令した。それは、軍兵1万五千、鉄砲千五百、弓千五百、のぼり三百などであった。
 また、その後の「慶長の役」においては、軍兵の動員数一万六千、軍船百二十一隻、兵糧米一万五千石、馬二百七十頭が追徴された。「飫肥城の攻防戦」からスタートし、宿敵日向伊東氏を倒した戦国島津氏であったが九州各地へ北上した拡張政策は、太閤秀吉の九州征伐に遭遇し挫折し、歴史の歯車は、遂に「太閤秀吉による中国侵略の災禍」へと発展したのであった。この秀吉の朝鮮政策は、その後の「明治政府の朝鮮進出・植民地政策」と相まって、今日なお、わが国と韓国との近隣外交の基本的な難問・歴史問題となって大きな足かせとなっている 

  

 更に豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、島津氏は豊臣方の西軍に属して戦い敗北し、島津家存亡の危機に経たされたが、島津義弘の「関ヶ原の中央突破作戦」の結果、その武勇がたたえられたこともあって、徳川家康は、島津氏にお家取り潰しなどの厳しい制裁は行使しなかった。



 他方、飫肥藩・伊東氏は、徳川方として東軍として戦ったため、秀吉によって与えられた領土・家禄は安堵され、後には、徳川旗本八万騎の幕府勢力ともなって、隣国の「外様大名の雄藩」島津氏を、側面的に監視・牽制する役割を担って明治維新を迎えた。




 このように、約100年にわたる「飫肥城攻防合戦」における、<日向の龍>伊東義祐・祐兵と<薩摩の猛虎>島津貴久・義久 双方の父子による合戦とその後の波紋は、実に日本の歴史の上に異彩を放つ事件であった。そして、この飫肥城攻防の合戦の中から、日向の強豪伊東氏と薩摩の強豪・島津氏の誕生があり、その成長と繁栄・衰退と没落、更にはお家再興という西国のドラマが展開されたのであった。


<島津・伊東両氏の歴史的相克>


 そして、この飫肥城100年合戦の攻防の背後には、単に飫肥地方や飫肥城の争奪戦というだけではない、双方に横たわる次のような相克---「プライド」と「こだわり」が存在したことが注目される。

「家門」「家風」の相克
    
<島津氏>
  
鹿児島県・歴史資料センター「黎明館」等によれば、島津氏の元祖は、京において渡来系の秦氏の流れを汲む平安時代の人で、中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子の惟宗忠久という。惟宗忠康は京の藤原摂関家筆頭の近衛家に仕えて、日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘園の経営者(家司職)として薩摩下向。鎌倉時代のはじめ、その子「惟宗忠久」が源頼朝から島津庄の地頭に任ぜられ、地名の「島津庄」の名をとって「島津忠久」を称したのが始まりという。

 最近、歴史作家の桐野作人氏のブログ「膏膏記」(2008.05.04)に遭遇した。そこに紹介されている薩摩の中世史に詳しい三木靖氏(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)の説によれば、島津氏は、初代忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代忠時も同様に鎌倉で没し、三代久経は、元寇のとき北九州で没している。四代忠宗も北九州にいたことが確認されている。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは、五代貞久以降であるという。

 また、史実に基づかない「惟宗忠久」の伝承の根源は、『山田聖栄自記』にあるという。定評のある史料であるが、一方、これが忠久の「偽源頼朝ご落胤説」(ただし三男)の端緒とも言われる。そして、島津氏出自の扮飾や島津発祥地の伝承が、『山田聖栄自記』から出発して『島津国史』や『三国名勝図会』などへの影響に基づいているという。
世間を賑わすこの出自の混乱は、江戸時代後期、とくに「島津重豪」時代の特徴で、重豪が、自身で「鎌倉に源頼朝と島津忠久の墓を建立」したことは顕著な工作の一環という。

 更に、同様に、
島津氏発祥の地「出水説」や「都城説」も、この史実から離れた『山田聖栄自記』に基づいて主張されている。史実に基づけば、島津初代忠久から四代島津忠宗までは、生涯、鎌倉在住であったことから、「島津氏の真の発祥地」は京都もしくは鎌倉と言うのが真相のようである。

 なお、私見ながら、島津氏始祖「惟宗忠久」が、
京において中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子であったという出自は、島津氏の本来の家風と文化が、知識・歴史・宗教・文化などいわば、「武家」よりも「漢籍に強い学者・知識人」の強い色彩を彷彿とさせる点で、その文化的な特質を感じさせる。このような視点は、幸にも火災などの災難から守られて、現在の鹿児島県立図書館や鹿児島県歴史資料センター・黎明館などに見られる室町・戦国時代からの島津氏の膨大な歴史・文化・資料の蓄積・整頓状況に驚かされることで、半ば証明されるように感じられる。

 その点、伊東氏の場合は、歴史的に「武家の統領」藤原氏(工藤氏)の家門・家風であり、また、永正元年(1504)3月本城・都於郡城が戦乱の中で炎上し、奈良・京都・鎌倉時代からの伝来の古書・文献の多数が消失したという(日向記)。また、義祐のもう一つの本城・佐土原城も炎上の記録がある。その後,、天正5年(1577)12月島津義久の日向侵攻に伴う、伊東義祐の「豊後落ち」に際し、再び義祐によって都於郡城は、機密情報焼却のため炎上し多くの記録、文献を焼失したが、このような伊東家の環境は、書籍・文献の保存に優れた島津氏と比べ対照的である。

 いずれにしても、島津氏は、
「本来、藤原房前を元祖とする京の藤原北家・摂関家である近衛家を、主に経済的に支えて護ることを使命とする家門」の惟宗氏であったと見ることが出来る。すなわち、島津氏は、日薩隅において京の摂関家・近衛家の利害関係を代表し、表裏一体の立場の家門であったと考えられる。なお、北家祖・藤原房前は、南家祖・藤原武智麻呂の弟。

<伊東氏>

  
伊東氏・工藤氏の先祖は、鎌足-不比等-武智麻呂-乙麻呂-是公-雄友と続く南家・藤原氏(奈良の藤原氏)。 平安京に移ってからは、後に公卿を占有した藤原北家(摂関家)に対し「武家の藤原氏」に転向した。天慶2年(939)東国に起きた「平将門の乱」を鎮定した軍功を挙げた藤原(工藤)為憲が、「工藤の新しい姓」を下賜され、以後伊豆や関東各地を拠点として「武家の藤原氏として皇室と幕府を専ら外側から護り支える武家の統領の家門」となった。

 この因縁によって、歴代皇室との縁は深く、平安時代末期には工藤祐経(藤原祐経)は、皇居を職場として天皇を警護する武者所筆頭(長官)・左衛門尉であった。また、元祖工藤為憲は、宮内省木工寮次官の「木工介」という、宮殿・神社・仏閣の建築部門の官職を授与されたので、伊東家では歴代の家業として大いに誇りとしてきたという。
 時代が下って飫肥藩となって、5代藩主伊東祐実は、飫肥の堀川運河を掘削し、飫肥杉の植林と増産に努め、これを京や江戸など各地に供給したが、これは藩財政の改革だけでなく官職「木工介」や「工藤」の家業の伝統への強い思い入れが働いていたという。


源頼朝家臣・鎌倉幕府御家人の相克
    
<伊東氏>
平安時代後期
 伊東氏先祖工藤氏は、「南家・藤原姓伊東氏大系図」によれば、
工藤頼氏が、頼朝の祖父・源為義将軍のもとで為義朝臣副将軍とある。、「保元物語・巻下」の記録をみると、祐親・祐経の叔父で狩野氏祖・工藤家継の三男狩野茂光は、当時伊豆工藤家の宗家として勢力を誇った。嘉応二年(1170)、頼朝の父・源義朝との権力闘争で捕らえられ流罪中の鎮西八郎源為朝が、騒乱を起こしたので、狩野工藤茂光は、上洛して高倉天皇にこの一件を奏上した。その結果、後白河法皇から茂光に対して為朝の乱鎮定の院宣が発せられ、茂光は伊豆、武蔵、相模等の諸国の軍勢を召集し五百余騎と兵船二十余艘率いて、伊豆大島の館に押し寄せ為朝を討伐している。

 また、
工藤祐経は、京の平重盛に永く仕えていたが、頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に下り頼朝の家臣となった。武者所一臈(首席)であった祐経の文武両道の能力を高く評価した頼朝は、多くの御家人の中でも特別に重宝し優遇した。鎌倉幕府正史「吾妻鏡」の元暦・文治・建久年間の条の記録によると、祐経は、石橋山の源平の合戦には間に合わなかったが、一の谷、壇ノ浦の合戦には参戦した。頼朝の弟で平家追悼使・源範頼を大将とする大手軍の諸将の一人として、伊東・工藤・宇佐美等の伊東一族を引き連れて瀬戸内海を進軍、壇ノ浦に向かった。また、後の奥州藤原氏の討伐にも参戦した。

○鎌倉時代
 
工藤祐経は、鎌倉幕府の開府前後に於いては、御家人中筆頭の側近で寵臣となって、将軍頼朝の行くところ常に随行していた。
 祐経の子・伊東祐時は、頼朝から父祐経の家督を相続し、日向国の地頭職ほか全国に28箇所の領地・荘園を与えられた。このように、伊東氏は源氏譜代の家臣・御家人であった。
 伊東氏の日向国の経営は、工藤祐経の嫡男伊東祐時が、日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国・鎌倉武士の勢力を広げていった。
伊東氏の本家が実際に日向を支配するようになったの1335年足利尊氏から命じられて下向し伊東祐持からである。

<島津氏>

鎌倉時代
 鎌倉時代のはじめ、源頼朝から「惟宗忠久」が島津庄の地頭に任ぜられ、庄園「島津院」の冠をとって改姓して「島津忠久」を称したのが始まりという。
 「忠久を生んだとされる丹後局は、実は源頼朝の側室で忠久は頼朝の落胤」とする説が、島津氏作成の史料『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されてきたが、この島津氏による「頼朝後胤説」は、頼朝と丹後局の遭遇のTPOの検索から、学会では「偽源氏説」として否定する意見が圧倒的に強いという。また、島津氏は、過去において自らを「惟宗氏説」、「源氏説」、「藤原氏説」そして「以仁王説」と異なった系譜で主張していて、島津氏忠久以前の系譜についても定説は無い。従って、近衛家の家司職の惟宗忠久を薩摩地頭として頼朝が選任した理由や背景は不明とされる。
 いずれにしても、平安時代から薩摩や日向にあった近衛家の庄園(島津院)の権益は、京の最高の権勢家・近衛家の経営にとって死活問題であったと想像され、近衛家は、その既得権の維持・拡大のため、鎌倉幕府を開府した頼朝に対して惟宗忠久を地頭職・守護職として任命するよう強く要請した必然性は高い。


室町幕府を巡る相克
   
<伊東氏>

 建武2年(1335)3月4日、南北朝期に転じては祐時四代孫の宗家「伊東祐持」は、はじめ北条時行に従って戦い、その敗戦後は、足利尊氏に味方して随従し、歴史を飾る相模川の先駆、京都三条河原の合戦、勢多の後攻め、楠木正成・新田義貞との攝津、湊川の合戦など各地に転戦。
 足利尊氏からの信頼厚く、要請により恩賞として得た日向国・都於郡300町の領地に、伊東氏の本城「都於郡城」を築城し、貞和4年には京の警察署長「検非違使」に任命され上洛するなど、足利政権の成立に尽力した近習の御家人、そして日向在国の直臣・親衛隊「小番衆」として仕えた。この関係によって、伊東氏は、足利氏の直臣として日薩隅の「三国総帥」の任を受けて室町幕府を内側から守護する立場であった。また、日向・飫肥の地は、伊東氏が「守護使不入権」を有する「幕府直轄領」も含まれていたので、外様の「守護・島津氏」と激しく対立した。

伊東義祐の官位「従三位(公卿)」 室町幕府役職:(将軍)御相伴衆・大膳太夫・三国総帥(小番衆守護)

リンク参考情報将軍外交と伊東義祐

<島津氏>
 島津氏は、1333年(元弘3)後醍醐天皇が、鎌倉幕府の討幕運動を起こすと、島津貞久はこれに参加する。鎌倉幕府滅亡後、京では、後醍醐天皇の建武の親政がはじまり、親政から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてくると、少弐氏と共に足利尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡市)で、菊池氏ら後醍醐の宮方と戦う。しかし、南北朝時代には、1342年に征西将軍として派遣された南朝の懐良親王が南九州へ入り、一時は南朝方にも属するなど、その立場は南朝、北朝、南朝、北朝と大きくブレていた。これは、島津氏の主家・京の近衛家の立場と薩摩の在地領主の権益を確保するための安全策であったと思われる。

 応永3年(1352)島津資久が、宮崎地頭、島津氏久が日向本郷地頭、資久が日向臼杵院地頭となる等島津氏の日向国進出が続き、応永3年(1396)には島津元久が山東に出兵したため、伊東氏・島津氏両者の抗争が一段と激化した。そして
応永11年(1404)島津元久が日向・大隅・薩摩の守護に任ぜられる。しかし、島津氏は、室町幕府の成立時から距離感があり伊東氏ほど親密な関係には無かった。それは、島津氏が旧鎌倉幕府(北条執権)の体制で得た大きな権益を引続き追求する立場であったことに加え、元来島津荘が摂関家の所有する荘園(島津院)であったため、近衛家の強い支援が得られる立場にあった。

 島津氏の場合、天文21年(1552)伊東氏におくれて島津貴久が従五位下修理大夫に任ぜられたが、その後も伊東氏の場合のような幕府による高位の叙勲は見られなかった。

島津貴久の官位「従五位下」 修理太夫、陸奥守。日・薩・隅守護職。

「日向・薩摩・豊後」三国の同盟関係の相克
    
「日向・薩摩・豊後 三国関係」---「飫肥城の合戦」の産物
 伊東氏に深刻な内乱を誘発させ、島津氏との戦いで敗北に導いた大きな原因は、義祐の父・伊東尹祐の治世時に発生し、その子・義祐の没落によってそれが現実化した。すなわち、義祐祖父・祐国の嫡男尹祐は初め祐良と称したが、文明17年(1485)6月21日、祐国が当時島津氏の支配下にあった飫肥城を1万6000の大軍で攻撃の途中、不運にも島津軍の重囲に遭って戦陣に倒れ、まったく予期せぬ事態となった。

○祐良(尹祐) 島津同盟派・野村一族を討つ
 尹祐は、何を思ってか祐国の家督を相続するに当たり、突然伊東家の家中に乱を起こし、祐国弟で祐国に次ぐ実力者になっていた叔父の祐邑、および伊東家の中核勢力であった母方の野村氏一族を激しく討伐した。
 事の発端は、叔父の祐邑が当面の危機打開策として、島津氏攻撃のため「「豊後大友氏の支援」を頼む交渉をはじめたが、この事で、「豊後に内通しているとの噂」が立ち祐邑は野村吉右衛門らに殺害された。
 野村は、なお祐良(尹祐)を擁護するが、祐良は逆に野村一族の外城主十一名をことごとく滅ぼした。

○「義祐の宿命」 父尹祐の「大失政」の箍(タガ)
 これは野村一族が、伊東家の巨大勢力であり、しかも伊東家の親戚・重臣のうち「島津氏との親交・融和派」であったため、父祐国を島津氏に殺害され、島津氏討伐に燃えていた祐良(尹祐)が、その最大の障害を取り除くための果断な行動であった。
 しかし、
この体制内革命は、逆にその後尹祐の嫡男「伊東義祐」の内政を大きく制約するたが箍(タガ)となり、義祐の衰退の遠因となったのであった
この結果、島津氏との関係は、いよいよ厳しく険悪な状態に至り、これで、豊後大友氏との同盟に傾斜を強めざるを得ない結果に追い遣られた。

○嫡男・義益の室 宗麟の姪。日向・豊後同盟の形成
 天文十九年(1551)伊東義祐の家督を継いだ嫡男義益は、英明の人で京の公卿の覚えも良かったので、義祐は朝廷との関係を強化するためにしかるべき高家の姫君を嫁に迎えたいと思った。永禄五年(1562)、一条従三位中納言房基卿の娘との婚約交渉が成立し、翌年(1563)伊東家はその姫を迎えた。実は、この一条中納言の室は大友宗麟の妹であった。したがって義益夫人と大友氏は姪(めい)と伯父の関係、義祐と宗麟は息子夫婦を通じて親戚になった。結果的に伊東氏と大友氏が同盟関係を強化したため、外にあっては隣の守護・島津氏が危機感を増長させ、内部にあっては、伊東家旧来の親島津派が緊張を強め、やがてこの伊東氏内部の二大勢力の対立が激しくなり、ついには、島津氏に敗れて日向国を失う大きな要因ともなった。


歴史的姻戚関係による相克
    
永十年(1403)伊東祐安女 島津久豊の室(姻戚①)
 応永三年(1400)頃から、島津氏が日向山東へ出兵するなど日向国への干渉を強め、応永十一年(1404)には、島津元久が将軍足利義満から日向・薩摩・大隈の守護職を取得すると一段とその動きを強めた。この島津氏の攻勢に危機感を感じた伊東祐安は、和戦両用の構えを取り軍備強化を進める一方、応永十年(1403)になって祐安女を島津当主・久豊に嫁がせた。そして、祐安外孫の「虎壽丸」・後の島津当主忠国が誕生。

寛正六年(1465)伊東祐堯女 島津立久の室(姻戚②)
 寛正六年(1465)には、また伊東祐堯女が島津当主・立久に嫁ぎ、祐尭外孫で後の当主「島津忠昌」が生まれる。この頃より、伊東氏の支配力は相当強化され、飫肥城100年合戦の攻防が激しくなる。
 文明十七年(1485)、伊東祐国は、弟の祐邑とともに島津氏が支配する飫肥城を攻め、当主伊東祐堯も出陣。しかし、稀有の勇将であった祐堯も老いには勝てず参戦の途中死亡。不運は続き国主祐国もその後の飫肥城の攻防戦で重囲に会い死亡した。そこで、祐国の子の尹祐は、父祐国の死を強く悲しみ、一段と島津氏への対決姿勢を強めた。

永正九年(1512)伊東尹祐女 島津忠治の室(姻戚③)
 この間、島津氏は本家と分家の対立が激しくなり「薩隅日大乱」といわれる内乱が勃発し、島津一族の結束の弱体化が進んだ。
 このため、島津氏は、知将で豪勇の尹祐の猛攻を避けるため和議をすすめ、永正九年(1512)尹祐女が島津当主忠治に嫁いだ。
 この尹祐の嫡男が、伊東氏が鎌倉時代に源頼朝から日向国を恩給されてから約四百年、四十八城を擁して覇権を確立した伊東義祐であった。

「宗教活動」の寛容性・相克
    


        戦国異彩 「飫肥100年合戦」

        日向の龍」 義祐 心の世界  

 <参考文献>
 ①日向記(宮崎県史叢書・宮崎県史刊行会)
 ②島津義弘のすべて(三木靖・新人物往来社)
 ③鹿児島県の歴史(原口虎雄・山川出版社)
 ④中世日向国関係年表(FUJIMAKI sachio 聚史苑)
 ⑤ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』島津氏
 ⑥伊東氏大系図(東京大学史料編纂所蔵)
 ⑦古代豪族系図集覧(東京堂出版)近藤敏喬
 ⑧伊東氏歴史の主要文献(伊東家の歴史館)
 ⑨ブログ「膏膏記」(2008.05.04) 桐野作人


伊東家の歴史館
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