源平の合戦 祐経(伊東軍)壇ノ浦へ発進



<祐経、朝廷を辞し鎌倉へ。頼朝に初謁見、重臣・大将として壇ノ浦に参戦>

 
 ある日、伊豆国・宇佐美に住んでいた実家の母から1通の手紙を受け取った。その中には、伊東荘の出来事などの便りと共に、父祐継が母に託した「伊東荘、宇佐美荘、河津荘の三つの領地を、祖父祐隆から父祐継に相続する譲り状や地券文書(権利書)」が同封されていた。ところが、祐経は、これまで伊東荘はじめ伊東家の領地は、義父・舅で養父でもあった祐親の所有地とばかり思っていたので、その文書をみて驚き仰天した。

  「祐親の押領と、近年の威勢のよさを見かねた」郷里の年老いた母親から、事柄の真相を知らされた祐経は、 祐親に対して日頃から恩義と信頼こそ感じても不信感を抱いてはいなかった。当然、はじめは苦悩で眠れぬ夜を過ごした。しかし、ことは伊東一族の嫡家・宗家の相続問題で重大事件であった。
 そこで、意を決し伊豆の舅祐親のところに代官を遣って伊東荘の返還を頼んだが冷たく断られ、改めて再三迫ったが応じなかった。そして、祐親は祐経に対し「娘婿として恩義のわからぬ奴」と怒りをあらわにした挙句、伊豆からの食料や仕送りを止めてしまった。

更に祐親は、こともあろうに祐経の妻となっていた「娘の万劫」を祐経から取り上げて、相模の土肥遠平に再嫁してしまったのである。
伊豆国内外に聞こえた実力者となり、祐経の養父であり舅でもあった「後見人としての権勢」の意識とプライドがそうさせたのかもしれない。
 その結果、当時の祐経は、独身であったが生活に困窮したので、京の周囲の人からみても威勢の上がらない寂しい状況だったという。
 
 もはや、事態がこうなっては埒はあかないと覚悟を決めた祐経は、京の六波羅に訴訟を提起し、祐親も検非違使の別当から呼び出されて両者対決となった。
しかし、結果は先祖(祖父)の決めた家督相続の定めに謀叛を興した 祐親に道理は無かったが、平家に領地を寄進して巧みにわが身の保身をはかった祐親が有利な判決を勝ち取った。
 この裁判は、伊東家の密接な近親者同士による「家督と領地」にかかる争いであったので、官庁でもいずれを甲乙とも決しがたく、結局「御教書二通」を作成し、なお且つこの公文書に「後白河法皇の令旨(りょうじ)」を添えて祐親・祐経両人に賜ったのであった。すなわち、工藤家の本領は祐親の主張を取り入れて「祐経単独」の所有から「両人の所領」に裁定されたのである。

 このため、遂に円満解決の道を阻まれた無念の祐経は、小松殿(平重盛)はもとより後白河法皇まで煩わしての裁定でもあったので平家に対する期待はすっかり消失し、祐経自身の新たな覚悟を迫られる事態に至った。

 他方、世間においては、平家の政権に対する批判・怨嗟の声は騒然となり、遂に頼みの小松殿も死去したため、祐経の平家における近侍も極めて悩ましい状況になったのである。其処へ頼朝に敵対して戦った本国の入道祐親も富士川の合戦のため平家の陣に参軍の途上、頼朝軍の天野遠景に捕らえられたこと、そして三浦義澄に預けられた後、頼朝は祐親の罪を許したがそれを潔しとせず後自害し、本領伊東荘は、頼朝の手に落ちてしまったという情報がもたらされた。

 そこで祐経は、寿永1年(1182)頼朝の重臣の叔父狩野工藤茂光、弟の宇佐美三郎祐茂に付属して鎌倉に下り、両人の仲介により頼朝に初めて謁見した。祐経と会見し甚だ多くを語り合った頼朝は、祐経がすっかり気に入って喜び忽ち頼朝の側近として重臣の一人に列せられた。こうして、平家家臣の祐親に代わって惣領祐経を中心にした源氏家臣伊東一族の再結集は実現した。

 他方、頼朝弟義経は、元暦元年(1184)宇治川で源氏の木曾義仲を討ち、遂に平家追討のため京を進発した。 義経の二番目の兄で、平家追討使・源範頼(のりより)を大将とする五万騎の大手軍は、敵将平知盛軍五万騎と生田川に対峙し、義経の搦め手軍一万騎が三草に陣した。
 義経は、本隊・範頼軍の攻撃にあわせて、70騎を選りすぐり「ひよどり越えの逆さ落とし」の奇襲戦法を用いて平家の前進基地「一の谷城」を攻めて打ち破った。

 同じく元暦元(1184)年8月8日、工藤祐経は、源氏軍本体をなす範頼の大手軍の諸将の一人として伊東一族をひきつれて西海(瀬戸内海)に発進。平知盛軍との一の谷の戦いをへて、1185(元暦2年)正月26日には兵船82艘で豊後国へ渡海し壇ノ浦の決戦に臨んだ。壇ノ浦戦いは、源平それぞれの水軍の戦力の戦いであったが、一の谷の合戦同様、範頼の大手軍の圧倒的な圧力のもと平家水軍の寝返りがあり、また、義経の「戦艦の漕ぎ手を集中的に撃つ奇襲作戦」によって圧勝し平家の栄華は壇ノ浦に沈んだ。

 そして、同年3月11日、頼朝は範頼と工藤祐経など十二人の諸将に慇懃な手紙を送り、天下を揺るがした源平の合戦の戦果を称え、苦労をねぎらった。



<平家大将「重衡」 捕縛>頼朝、祐経に命じ重衡を酒宴で慰安

 
平重衡。平清盛の五男で重盛の弟。安徳天皇の母徳子の兄弟。平家一門の中でも「武勇の誉れ高き美男の大将」として知られた。近衛中将。本三位中将。
 治承四(1180)年、宇治川の戦いで以仁王や源頼政を敗死させた後、同年12月、重衡は兄の知盛と叔父の忠度を伴って奈良の東大寺、興福寺等の反平家勢力の攻撃に向かった。両寺院の僧兵7000人にものぼり、奈良坂や般若寺を砦として死守したためその攻略は困難を極めた。終に、重衡は仕方なく奈良坂に火を放った。ところがまもなく風向きは急に変化して奈良一帯は大火となり、東大寺大仏殿まで焼け落ちた。平家はこれにより両寺院を押さえ込むことができたが、畏れるべきは聖武天皇以来護られてきた金銅製の大仏の首も焼け落ちたことだった。重衡は「しまった」と思ったがもう後の祭りだった。平家の不運は急速に走り出した。

 翌1181年(養和元年)父平清盛は死んだ。重衡は、1183年(永寿2年)木曾義仲と備中水島で大激戦を行った。しかし、その後の義経との一の谷の合戦で梶原景時の手のものに馬を射られて捕らわれてしまった。義経は重衡を京都に送り土肥実平に預けた。やがて平家は壇ノ浦に滅んだ。

 重衡は鎌倉に護送され、祐経の従兄弟で、伊東一族の狩野茂光の嫡子狩野宗茂に預けられ、その後頼朝と対面した。頼朝は、武勇の誉れ高い敵将平重衡を鄭重に扱い座席も対等に与えた。
そして、1184年(元暦元年)4月20日、終日雨が降っていた。頼朝は重衡に沐浴を許した後、工藤祐経、藤判官邦通、官女千手前の三人を重衡のもとに派遣し、酒(竹葉)と肴(上林己下)を届けさせ酒宴を設けた。
 有情の美男と言われた重衡は、殊のほか喜び遊興の時を惜しんだ。 祐経は鼓を打ち今様を歌った。千手前は琵琶を弾き、重衡は横笛で五常楽、皇じょう急を吹き、夜半には四面楚歌を朗詠した。

 頼朝は、帰参した3人に重衡の様子を詳しく聞き、「自分は世間の風評を憚って同席しなかったが…」と神妙な感慨であった。そして頼朝は重衡に重ねて細かい配慮を示し、祐経には女官千手前を重衡が鎌倉にいる間は側に留め置くように指示した。祐経は、京の皇居武者所に仕え、小松内府平重盛の所で重衡を見てきたので、その旧好が思われてこの夜の重衡に憐憫の情ひとしおであった。

 頼朝が、温情をもって「勝敗は時の運、お気の向くよう致したいがご所存は?」の問いに重衡は答えた。「奈良の法師どもが極悪人として身柄を欲している由、私をお構いなくお渡し下さい」。すでに覚悟の返事であったので、頼朝は重衡をやむなく奈良の法師たちに渡した。
 風向きの変化で思い掛けず東大寺焼失の大罪を招いてしまった悲運の平重衡はこの年、6月20日木津川のほとりで刑死した。


<義経恋人・白拍子「静」 >「祐経の鼓」に合わせ、八幡宮の頼朝・政子の前で舞う

 後白河法王は源氏と平家をけん制し、特に源氏の頼朝、義仲、義経を競わせて相互の猜疑心を煽り源氏の仲違いをさせていった。
 義経はその策略にかかり頼朝の許可なしに「検非遺使、左衛門尉」という官職を受け、従四位・伊予守となった。これは頼朝の怒りに触れ、鎌倉入りを望む義経は腰越で足止めを食い拒まれた。頼朝の追及を恐れた義経は九州に逃れようとして大物の浦で待っていた臼杵の船は嵐にあい沈んでしまった。また大勢の部下や伴の者はバラバラになった。

 その後、いったん吉野山に隠れた。しかし、そこも追及の勢力が伸びてきて奥州へ逃れたものの、頼みの藤原秀衡が急死し義経の運命は暗転し、その秀衡の子息たちにも襲撃され行き場を失った。そした、22歳で日本史に彗星のごとく現れて8年余。悲運の英雄・義経はとうとう衣川で31歳の短い流れ星となって消えたのであった。

  奈良の吉野山の山中で、別離を拒む恋人静御前は、義経に京都の母磯御前の所に身を寄せるように繰返し諭されてようやく別れた。山中を放浪していると一人の僧侶に怪しまれ、京都にいた北条時政の所に引き出された。静と磯御前は、義経の行先について執拗な厳しい訊問を受けた後、鎌倉の頼朝のもとに護送されていった。
 文治2年4月8日、頼朝・政子夫妻は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣。ついでに静御前を回廊舞殿に召し出し、強く拒む静に向かって再三京の白拍子の舞を懇望し見物した。それというのも、静御前の舞は、京において「神をも魅了する美しい舞」として有名だったからである。

義経の恋人・佳人静は、一の舞として家の芸である「倭舞」を舞い、続けてニの舞として


       
「よしの山 みねの白雪踏み分けて いりにし人のあとぞ恋しき」
          「しつやしつ しつのおたまきくりかえし 昔をいまになすよしもかな」


と吟じつつ、義経への思いを込めた華麗にして狂わしい恋心の今様を演じた。このとき静に合わせて工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が同拍子を奏でた。
 祐経は、歴代勇士の家に生まれ武門の跡を継いできたが、また京の皇居・大宮御所に仕えて武者所一臈(長官)の職を歴任し、自ら京文化・歌吹の曲にも携わり来たためこのような役もできたのであろう。
はじめ、頼朝は「八幡宮の宝前は本来関東・源氏の繁栄を祝うべきところだ、反逆の義経を慕う別れの曲歌を舞うとは奇怪なり」と激怒し出したが、政子が「君が先に石橋山に戦い、私が伊豆の山で身を焦がして君を待っていたときも、今日の静と同じ心境でしたよ」と強く諭したので、頼朝は憤りを収め静を許したのであった。